バブルの頃#127:1993年7月
4日
東京に拠点を移したが、10年以上借りていた横浜の駐車場は解約しなかった。生まれ育った所であり、横浜は自分の原点としてこだわっていた。前職で支給されていた乗用車は、リース料を全額前払いしていたので、残りが1年ある。これを横浜においていた。前夜、車を横浜から移動し終日ドライブを楽しんだ。月に1回、車を動かしている。
9日
神戸に行き、家裁で調停成立。昨年末、芦屋で別れた息子二人に会うことなく離婚となった。今回、裁判官、調停委員から協議離婚のケースをいろいろと聞かせてもらった。女性の側から申し立てるケースはすさまじいものがあるようだ。夫が病弱で収入がない、暴力をふるう、酒乱、ギャンブルで浪費、サラ金に巨額の借金負債、倒産など。自分のケースは「夫のわがまま」というところか。会社でのパワーゲームの中で、家族が敵の口車に乗せられたことを第一の理由とした。今思えば罪なことをしたと少し後悔している。当時はバブル全盛で金と権力の甘い蜜が散乱していた。日本人はNO1とかエコノミックアニマルとか呼ばれて、欧米を肩で風を切っているような気がしていた。
できることなら、朝までゆっくりと眠り、思い切り叫んだり泣いたりしたい。
15日
家裁の調停書が届いた。個人レベルでのバブル清算の見通しがついた。
仕事を終え23:30に帰宅したが、うつむいて歩いているような気がする。これではいけない。毎日、何となくもの足りない日が続いている。しかしながら、この感じは外資にいたときにはなかったものだ。過去は振り返ると良く見えるもの。その最中は、実は本当に辛いものだったに違いない。ただ、今忘れているだけだ。
20日
宅配便で神戸から祖母のキセルと母の時計、それからだれかのメガネが届いた。形見であった。忘れていた。
今の仕事にありついて1ヶ月がたった。休みの少ないのには困ったものだが、外資では週休2日は建前で、週末はいつも移動日であった。金曜の夕方とか土曜の昼間は成田、ドゴール、フランクフルト、ヒースローにいることが多かった。週末を自由時間として使えるようになるには3年かかった。
27日:梅雨明け
養育費6ヶ月分を先払いして送金した。ふと申し訳ないと思ったりしたが、今はこちらも辛いところだ。養育費を払うと給料で暮らしていけないというのは、なんともたまらないことである。この苦しさ、いつの時代にもいつもの事としてかわりなくあったものだ。
自分なりのバブル時代の稼ぎはほとんど使い切った、まだ少し残っているうちに、とにかく定収入は確保したので外資で消耗した心身を時間をかけて修復できればありがたい。