心の微細なアップデートに気づくこと :ゴールテープを切ったあと
私は無事に1月10日(締切日)に修士論文を提出して、(ゴールテープを切った!のかな)一週間ほどひたすら寝て食べることしかできなかった。(提出前一週間くらいは不安であまりよく眠れなかったのだ。)
それから、書くのもめんどくさい事務的ななんやかやに追われ、気づけばなんと2週間近くが経過した。久しくnoteにも来ていなかった。
私は前の投稿で、「論文を書ききったあとにどんな景色が見えるのかな」みたいなことを書いた。
今日は、前の記事に応答する形で記事を書いてみた。
昨日は尊敬している(たぶん好きな)人に久々に会った。もう何年もその人のことが好きだし、すごいなあと思い続けているけれど、昨日の時間を私は心から楽しむことができなかったのである。
私はこれまで、その人の言葉のほとんどを、良いものだと思って受け止めていた。しかし昨日、私は、はっきりと「それは違う」「どうしてそういう風に言うのか」と思ったことがたくさんあった。(もちろん、昨日会ったときにかけてもらった言葉で、励まされ、素敵だと思うものもたくさんあった。)
その人と会ったのは2か月ぶりだったけれど、2か月前に会ったときよりも上記のような反抗的(?)な思いになることが多かった。
私の中でいったい何が変わったのかわからないけれど、心が少しアップデートされたのかもしれないな、と思った。そしてそれはきっと、修士論文を追い込んで書いたこと(何かをがむしゃらにやってみたこと)と切り離せない気がしている。
心、というか自分の中の何かがアップデートされたのかも、ということは他にもいくつかある。
・今までよりもテイラースイフトの曲が好きになった(たぶんこれは、スマホを新しくしたから、スピーカーの性能が向上しただけかもしれないけど)
・今までよりも計画的に、前もって何かをやろうとするようになった(修論作業で、「あとでやろう」ということはできないと身をもって実感した)
・壁にメモ書きを貼るようになった(やることのリマインドがしやすい)
・紅茶よりもコーヒーが好きになった
・以前よりも負けず嫌いな部分、頑固な成分が増した
アップデート?と思われるものもあるが、けれどしかし、小さな変化がいくつかあって、それらが人との関係性をも変えうる要因になりかけている気がする。
けれど、尊敬する人との関係についていえば、その言葉の多くを反抗心なしで受け止めていたときよりも、もしかしたら、対等な関係を築けるかもしれない、と思った。
これまでその人とは、関係上どうしても「教えを乞う」という姿勢だった。もちろんこれからも教えてもらうことはたくさんあるだろうけど、それだけではなんとなく限界があるような気がするのだ。
現状を変えるにはきっと、「まだ言えていないけど言わなくてはならないこと」(たぶんそれは告白なのか、わかんないけど)を言う必要もあるだろうけど。
見える外の景色は思ったほど、(当たり前だけど)変わらない。世界が急に色づいて見えるとかもない。(笑)
けれどもたしかに、自分の心や感情みたいなものは、いくつかアップデートされた。そして、微細な自分のアップデートを知ることは、これからの自分にとって、自分の感情の浮き沈みを受け止め、整理して、また明日も生きていくために、大切なことだと思う。