12.言語と土地と考え方 4

生活を土地環境に適応させた延長線上にあるものが言語だと理解している。そして、それぞれの環境を認識し、言語を発達させる中で生じてくるのが概念であり考え方であると思う。環境を認識し、適応し、基本的な生活のあり方を確立させ、その先に、ヒトの脳の中に、言語であり概念でありが生じる、と。

例えば、日本語に「時間」を直線的に認識するような表現がないことと、式年遷宮や常若という概念があることは無関係ではないと思う。「永遠」の解釈の仕方が、言語によっては、一人の人間がずっと生きるというような感覚のものを意味する場合もあれば、日本のように「繰り返され続く」を永遠ととらえる場合もある。

そういった多くが、自然環境との相互関係を見れば説明がつきやすい。それぞれの言語を操る民族がどういった自然環境下で生活を営んできたか、を見れば自ずと附に落ちる説明がつく。

言語も概念も、どうしようもなく、その土地土地の環境と結びついている。というよりも、その環境への「ヒトの対応の仕方」に結びついている。人間が、環境を認識し、生存活動をその環境に最も適した形に適応させていく中で生まれたものが言語であり概念だと考えると、結びついていない、と思えるほうが不自然で奇妙な気もする。

(ただし、「環境が人間の思考や認識のあり方を決定づける」のではなくて、あくまで「ヒトが環境に適応した結果生み出したもの」という捉え方をした上でと強調したい。これは同じことを言っているようで、大きな違いがあるように思う)

これが、まず第一の層。

ある程度人間社会が形作られてくると、当然「環境」の中には、人為的なものが加わってくる。他言語を話す民族との交わり。そして、その言語を使う民族が辿ってきた歴史。それから、実生活では使われなくなったものの淘汰されずに、ずっと人間の思考の中でのみ使われ存続してきた「言語」の存在ーーこれを、個人的には非常に不気味なもので、「人間の大元に思考がある」という考え方の根元となっているものだとも考えている。

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