軽い言葉

言葉というものを考えてみる。

そもそも言葉というのは、人が、何かそこにあるものーー物質的なものでも、目に見えない何かでも、人の中の感情でもなんでもいいですが、「そこに存在することを認識したもの」を、他の人々と共有するために編み出した代替え品なのだと思うのですね。

実際にそこにある何か → それを意味する記号や音

という構図。

最初にその記号や音を設定した人は、「この記号と音でね、これこれこういうことを表すことにしましたよ」と共有のための大前提を説明し(=意味を定義)、「実際にそこにある何か」を自らも体験して知っている人は、「ああ、あれのことをこう呼ぶわけね、オッケー」となって、その人々の間では、「その記号や音=そこにある何か」が共通の認識として成立する、と。それが言葉の構造なんだと思うわけです。最終的には、

実際にそこにある何か ⇄ それを意味する記号や音

こんな感じ。

そのうちですね、「実際にそこにある何か」を体験したことのない人が出てきます。そういう人々に対しても、言葉というものは一応効力を発揮しますが、第一段階とは認識の構造が違う。

ある記号や音 → こうこうこういうことを意味するという説明

という方向になる。大前提の「実際にそこにある何か」が欠落しているのだから仕方ありません。で、その「説明」に対する、受取手の理解が、最初に誰かが体験した「実際にそこにある何か」に結びつくとは限らないわけです。

ある記号や音 → 説明 → 受取手がそうと思う事柄 ≠ もともとの「実際にそこにある何か」

こんな感じ。

こうなってきますと、例え同じ記号と音で表された「代替え品」を使っていても、実際に互いに理解している物事は実は全く異なる、ということも起こり得るわけですね。

仮に、最初に「ある記号や音を、あることを意味する言葉」として定義した人をAさん、それを「あー、あれがこれね、ガッテン」と共有した人をBさん、「この記号がこれこれこういうものを意味するってことね」となった人をCさんとしますと、おそらくAさんとBさんは、その言葉をもって同じ事象を共有していると想定できますが、もしかするとAさんとCさんは、同じ言葉を共有しているものの、互いにその言葉をもって認識している事象は微妙に異なるかもしれない。

ここに、「こうこうこういうことを意味するという説明」が「その記号や音」そのものである、と認識するDさんなどが現れますと、そりゃもう大変です。

何か現実に存在するものの代替え品として設定されたはずの「記号や音」そのものが、なんらかの漠然とした意味を持つ「存在」として認識され始める、という感じでしょうか。

つまりですね、「記号や音」にも、それが指し示すものである「説明」にも「実際にそこにあるもの」への紐付けがない状態になるわけですね。

言葉というものが、現実との繋がりという錘を失った、ふわふわと軽い何か、になると。

こうなると、AさんとDさんではもはや会話が通じないかもしれない。が、同じことを話しているという「前提」のもとに無理やり話を続けねばならない。

昨今、議論一般、これになっていませんかねえ。

軽い言葉は軽いので、ふわふわと行ったり来たりするだけです。軽い言葉を扱う人の、言葉と現実は大抵リンクしていない。楽ですね。

が、その「軽い言葉」も「何かを意味する言葉」である以上、受取手によってはきちんと現実と紐付けをしてそれを解釈する。それには、重さがあり、時間と労力がかかります。時にはボロボロに傷つきもする。損だなあ、と。

して、昨今の世でうまく世渡りや金儲けができるのは前者かもしれない。でも、世を実際に動かしているのはやはり後者なのでしょう。もしくは、言葉に惑わされない、現実を生きる人々。おそらくは以前語ったサイレント多数。じゃないと社会が回っていかんのです。社会は現実ですから。

結局、尻拭いをさせられるのが現実に生きる地道な人々ならば、うっかり軽い言葉に惑わされて、ふわふわ族を利することだけは、もうなんとしても避けたい。軽い言葉を操る人々を、見極められるようにしておきたい。鍵は、言葉と現実との繋がりの有無、でしょうか。

……と、結局は「言葉」という謎と誤解多きツールで訴えてみる。

J





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