8.学問を疑う

昨今、学問であると認められている「学問」の、「こうである」という定義の多くが、18世期欧州か19世期米国の「ものの見方」に拠っていて、かつその「世の認識方法」の大元は「ギリシャ・ローマ」あたりにある。しかも、どこまでいってもすべての物事の捉え方の根本に宗教の匂いがする、と感じるようになって久しい。

その定義が「客観的事実」で「世界」「人類」共通であると疑わない辺りに違和感を感じ続けている。そもそも、それが奇妙であると感じるものが少なからず存在する時点で、前提が破綻している気がしないでもないけれども、そこには、ちゃんと「奇妙に感じるのは受取手の知識教養の欠落である」という解釈が用意されている気もするので、どうも閉鎖的で息苦しい。

が、少なくとも、西欧社会の学問所においては、過去からの流れと繋がりがあり、一つのものの見方としては、一本の筋があってどしりと実を伴っているようには思う。

この考え方を「そういうものである」と全面的に受け入れて、そこに思考の論拠の全てを頼ってしまっている姿を見るのが、どうにも虚しい。

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