11.言語と土地と考え方 3

特定の音を、現実の事象と結び付けることができて、その特定の音を、それが意味するところと共に蓄積できる脳を持っているのが、ヒトの特徴なのだと考えている。

そこから先、「言語」と「考え方」は、そもそもはその言語が生み出されたた「土地」の特徴に呼応してそれぞれ発達したと思っている。ヒトはそれぞれの土地の特徴に適応して生存活動を行うわけで、その環境に最も適した「生活」をして生き延びていく。その先にその生活様式に最も適した「社会」や「体制」が生まれていく。言語は、その中で必要性に応じて発展していったと考えている。

環境が違えば、そもそも認識するものが違う。砂漠を見ているヒトと、森林を見ているヒトと、氷原を見ているヒトでは、まず見ているものが物質的に違う。湿気の多い場所での生き延び方と、乾燥した土地での生き延び方はそもそも違う。氾濫を起こす河川の側で社会を作るのと、密林で主に狩猟をして生存していくのとは、根本的に対応の仕方が違う。寒さに対応しなければ生きていけない土地と、暑さに対応しなければ生きていけない土地と、何もしなくても生きることだけはできる土地と、暑さと寒さとに対応しなければ生きていけない土地では、適応の仕方が違う。

ヒトは適応能力に優れた生物なので、衣食住のあり方をそれぞれの環境に応じてそれぞれに適応させていく。その中で、五感で認識したものをある特定の音に結び付け、その音を蓄積して、その音をも駆使してより複雑なコミュニケーションをはかるようになり、それぞれ言語というものを形成していったのだと考えている。ちなみに、文字を持たない言語は文字にする必要がなかったからで、むしろ文字にする必要性(余裕)があった土地のほうが特異だったのだと思う。

言語は現実に存在する何かを必要性から音に置き換えたところから始まっている。それぞれの「言葉」が意味するものは、常にそれが指し示す現実の何かだ。環境が異なれば、ヒトが認識するその「現実」が異なるので、言葉も基本、各言語固有の何かだと考えるほうが現実に近い。ある言語を別言語に置き換える時には、その言語が指し示す「現実の何か」の、置き換える言語における類似の何かを当てはめるのであって、正確に言えば、その二つが現実で実際に行われていることは異なる場合もある。

社会生活や文化や言語は、そもそもがヒトの高度な適応能力の賜物なので、その適応した土地の自然が異なるのと同じくらい言語の指し示すものは異なる。しかも、それぞれの言語はそれこそ、現在の私たちの感覚からすれば気の遠くなるほどの長い年月をかけて、徐々に徐々に形作られてきたものなので、その土地の生活環境と言語と呼ばれるものとの結びつきは私たちが(ここ数百年の理解方法から)安易に「文化」と呼ぶものとの結びつき以上に強い。そこには、生活に直結する周囲のものの認識の仕方から、時の捉え方、考え方そのものも含まれるので、基本的に使用する言語が異なれば、世の認識の仕方が異なるのは当然と言えば当然のことなのだと考える。

それこそ、最低限そこは人類共通でしょうと考えがちな、生物としての行為ーー動物としてのヒトが行う原始的な行動すらも、いわゆる「文化」という上膜がかぶさってしまえば異なることが多い。

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