実家のアルバムを見て、写真の価値に気づいた話。
子どもたちが産まれてから、初めて実家の屋根裏部屋に登った。アルバムがそこに置いてあって、二人が小さいうちは危ないから登れなくて、もう梯子も登れるか、と三人で上がった。
よくある、昔のアルバムは重くて、パリパリ、ぺりっとしたセロファンの感触を感じながら捲る。
当たり前だけど、自分も赤ん坊のころがあって、子どもの頃があって記憶があることもないことも、写真って残せるものなのですね。
上手い下手とかよりも、観光地で撮った記念写真みたいなものの方がわかりやすかったり(私の両親はカメラに関心が無く、光が綺麗だから、構図を考えて撮るなどは全くしないタイプなので記録としての写真がめちゃくちゃに多い)
あ、この時のこの服を覚えてるなーとか自分でもよくわからないポイントで記憶を思い出したり、小学生から中学校終わるまでは何につけてもつまらなそうな顔してるなーとか、色々しみじみ読み耽ってしまいました。(子どもたちも、え、これがじいじ?!(じいじは昔かっこよかったのよ)とか興味津々だった)
子どもたちの写真、プリントせねば…と百回くらい思ったことを再び思いました。写真って、本当に後から振り返るためにあるのでしょうね。
私にとって写真の価値とは『見返したい一瞬』を留めてぎゅっと凝縮したものなのだと思いました。もうきっと次にはここに無い一瞬。
当時は必要ないよ!買わないでいいよ!と思っていた大学のアルバムも、子どもたちが飽きて降りてから読み始めて、さわやかすぎて、ふはっと笑いました。幼い。この時期の写真は携帯全盛期で全部失われてしまったので、本当に貴重。
面白かった!撮っておいてくれてありがとうと母に伝えました。
『アルバム持って帰る?』と聞かれて、
『私が持って帰ったら何かの拍子に捨ててしまいそうだから』と元に戻したのでした。
そうして私はなんてことのない今を記録するのです。ありがたいことに私の被写体は日々成長著しい子どもたちで、日々流れてしまう日常で、絶対、それは変わってしまうものだから安心して撮っていい。
人によってそれは、風景だったり、生き物だったり色々でしょう。自分にとっての 写真の価値 を掴めたら、それに向かって真っ直ぐに撮るだけでいいのだと思います。
写真をよく撮るようになって、光が〜とか、構図が〜となりがちでしたが、あ、そんなんいいから、今撮りたいものは今しか撮れない、だから躊躇せず撮っておこう?そのためのデジタルカメラ。と今日思いました。写真の価値って、振り返った時にしかわからないのかもしれません。
私ほ常用フィルムはISO200で、曇天や雨天、雨の日、夜間の室内では結構動く子どもを撮る時にシャッタースピードが確保できないのです。
今回の帰省にはx100viとFE2、PENFTを持って行きましたが、雨のため実際に持ち出したのはx100vi。
いつも使っているフルサイズミラーレスよりはずっと軽く、パパがいなくて息子がすぐに『ママだっこぉぉ!!』な時も『え〜?』といいつつ抱っこできました。息子、子猿みたいでかわいい。このかわいさを、おぼえておきたい。
軽いってめちゃくちゃ重要なスペックですね。GR3には無いファインダーも気に入っています。撮りやすい。
今回は手ぶれ補正が結構効いてる!と実感しました。もちろん息子はすばしっこいのてぶれますが、それはなんか好きな感じ。これも大きくなったら、こんなに飛んだり跳ねたりしなくなるんだろうな、そもそも、写真なんて撮らせてくれないかもしれない、と思うのです。
100万枚のフィルムどころか、128GのSDカードがこちらにはあるので、思う存分撮り切りたいと思うのでした。セレクトが苦手でやっていないのですが、アルバムにしなきゃな〜。。