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過保護と信じることと。

娘が朝さめざめと泣いていて、一体どうしたのかと尋ねたら
「タブレットの番号がわからなくなりそうでこわいの、学校行きたくない」
と言う。そうかそうかと話を聞いて、パスコードを何か紙にメモしても良いか担任の先生に連絡帳で聞いてみるね、と言うことで決着した。
結論から言えば、その日持ち帰った学級便りにはパスコードが書いてあったし、家で一緒に使ったらわたしよりスイスイ使っていて驚いた。「はじめてタブレットを持ち帰って家で宿題をするということの不安があったのですね」と担任の先生からのコメントもいただき、やれやれ、と言う感じである。

とはいえ銀行の暗証番号もクレジットカードの暗証番号も職場のシステムのパスワードも忘れてしまう母である。この「番号わかんなかったらどうしよう」不安は毎度銀行へ行くたびに、勤務報告をするたびにハラハラしているんである。子が子なら親は親なんである。やれやれ。

というわけで、なんとなく娘の感じているその不安がわかってしまい、今回は連絡帳を使った。そして私も娘と同様小さなことが不安に感じるタイプである。夫や実家の家族からは、「変なところ豪胆なのに変なところすごく気にするよね」とお墨付きをもらっている。失敗したくないというのもあるし、予定外のことを楽しめる余裕のある時はいいけれど、そうでなければとことん調和外はシャットアウトしたい。かなり偏屈に生きているなぁと思うこともしばしばだ。

とはいえ、私の両親は門限には厳しかったが、変なところ放任でもあったので、「あーーー嫌だけど自分でなんとかしなきゃ」と思ってきた節がある。
でもそれってちょっと寂しい。重いランドセルを背負って学校に向かって学童もたくさんの宿題も頑張っている娘に「パスコードくらい自分でなんとかして」とするのも違う気がしたのだ。「失敗しても大丈夫だよ」「先生に聞けばおしえてくれるよ」という声がけをしたけれど
「ずっとは覚えられないの!失敗したら大変なことになっちゃうの!」と泣かれてしまった。うーん難しい。

そんなことがあった昨日。娘は繊細なんだろうか、ちゃんと友達はいるんだろうか、学童も負担なんだろうか、控えめすぎて積極性が足らんのでは私の育て方が…とぐるぐる考えていたら、一緒に校門についた。

いってらっしゃいと見送って、最初の頃はこちらをなん度も振り返っていた娘は、今は振り返りもせずにゆっくりだけれど歩いている。そこに後ろから高学年の女の子がやってきて、娘に声をかけて手を繋ぎながら下駄箱に向かっていった。
拍子抜けした。

学童でお姉ちゃんたちに遊んでもらった!と言っていたけれど、その一人かもしれない。何にせよ、彼女は彼女の世界を創り出しているのだ、と気づいた。

つい子供が転ばないように先回りしてしまいたくなる。それは彼女自身のためというより私自身の為だなと気づいては自己嫌悪になる。

けれど、それはもうほんの少しでいいのかもしれない。
彼女自身の世界を創れるのは私ではないし、彼女だけだから。

困った時に手を差し伸べられるように、ぎゅーして!と言われた時に抱きしめられるようにいられるようにしたいと思った朝だった。





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