九十九里。
海浜幕張から多摩の家まで運転して帰宅。首都高は難しい。
朝は日が射して、ご飯もそこそこに海へ行った。
海にざぶざぶと入ってゆく。
なんとも、海の子たち。
戻ってお風呂に二人を放り込んで、私も入ってあたたまる。チェックアウトしようとして、たまたま地曳き網に行きあった。
あまりに大漁すぎて、持っていって良いよー!とたくさんコハダをもらった。海で魚を捕まえるのが夢だった息子、本当に嬉しそう。
たくさん…たくさんすぎていま30匹のコハダと、1匹のアジと、3匹のイボダイと、2匹のイワシと格闘してる。二人とも内臓とったり手伝って最初ぬるぬると赤黒いコハダの内臓を怖がりながら、気持ち悪いと言っていた。
『二人の中にも、同じよう動くために内臓がはいってるんだよ』と教えたら『魚も内臓があってうごくのか、こんなに小さいのにちゃんと入ってるのかすごい!』と言っていた。目がキラキラしていて楽しそうで、天ぷらを食べて『美味しい!』と言ってた。
生きた教育の代償は凄まじい疲れ。今度から10匹までにしようねと約束した。
とはいえ、地引網の引かれた時のぐわっと昂る感じと、その無惨さと、量が多すぎるから不要と浜に投げ出されてピクピクと動きながら、もう沖には戻れない魚たちを、そのままにするよりも少しでも食べてしまいたかった。
コハダは初めて捌いたけれどすごく捌きにくい。小骨が多いので小さいのに手間はアジの5倍。久しぶりに魚を捌いた。朝まで生きていた。もう死んでいて、わたしの命に、身体になる。
コハダは塩水で臭みを抜いて天ぷらにしたら、ふわっふわの上品さ。小骨がまだあるので残りのやつはより丁寧に骨を削いだ。
イボダイは塩焼きにした。子どもたちが感動してバクバク食べる美味しさ。なんか良い顔してる。(わたしはゾンビみたいになってる)
コハダとの戦い、おしまい。だんだん上手く早く捌けるようになって、生き物の体の構造に元々興味があったんだよなと、あちこちに飛んだ虹色に光る鱗を見た。
鱗の剥がされたコハダの体はやわらかく綺麗。
生きているものの命を持って、死なせて、生きていること。
わたしたちは人間である前に生きものであること
漣と鱗は同じひかり
足元を波が濡らしてゆくこと
砂の感触
潮の匂い
風
全てくるくる回ってしまうほど、好きで、楽しくて、子どもたちと一緒に笑った日でした。
このまえ『いつから自然や生きものが好きだったんですか?』と訊かれて
考えてた。
九十九里と、父方の実家の大網に行って
わたしは物心つく前から、多分生まれた時からずっと、自然や人間以外の彼らのことが身近で好きで、彼らのように在れ無いことが悔しくて
ずっと憧れを抱いてる。
一尾一尾の体に包丁を入れる時、同じ躯はひとつとしてなく
すべてすべて美しかった。
なんだか、胸がいっぱいになった。
小さな爪の先ほどもない鱗一枚。
あんなに美しくて、全て祝福されて生まれているのに
どうして人間は惨たらしいことができるんだろう。
天然の向こうに行きたい。まだ行けない。
嬉しかったのと、悲しかったのと、美味しかったのが、一息ついたら波に逆巻く砂のように、いっぺんに来た。ボロボロと泣いた。
鴎が食べられないほど浜に打ち棄てられた魚たちは、潮が満ちたら海にかえれるんだろうか。
かつて、砂浜を埋め尽くすほどだったという、綿花のために肥料にされた鰯の群れを思った。
同時に日に照らされたピカピカ光る無数の海から来た魚たちを私は綺麗だと思って写真に収めた。わたしと、彼らの隔たりを思う。人間だったら?無数の人間の死骸をわたしは美しいと思うだろうか?
夜が涼しい。潮の匂いはしない。
空気は乾いて、風が部屋に入ってくる。
爪の先から生臭さが微かに香る。本当は意識していないだけで、たくさんのたくさんの生き物を下敷きにして生きている。
海の塩気と涙の塩気は驚くほど似ていて、私たちが海から来た何よりの証拠だと思った。
撮り終えたフィルム2本を郵送する準備をして眠る。おやすみなさい。