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おもいあがり~愛媛・高知同居男性傷害致死死体遺棄事件②~

死因

弁護側が傷害致死を認めないのには理由があった。
野田さんの死因は、「多発外傷性ショック死」とされており、たとえば首を絞められたとか、刃物で刺されたとか、そういったはっきりとしたものが死因ではなかったのだ。
遺体を解剖した高知大学の古宮医師によると、野田さんの遺体には、外傷性硬膜下血種、多発ろっ骨骨折、広範囲に及ぶ皮下軟部組織損傷が認められ、それらが合わさったことによる多発外傷性ショック死が死因であった。
それらは野田さんの死の直前(数時間前から半日以内)にできたものが大半であり、これ以外にも多数の外傷が野田さんの体には残されていた。
実際、光洋も野田さんが死の直前に、椅子からずり落ちて側頭部を強打したことを供述している。

しかし、それらを単発で考えた場合、いずれも致命傷となるほどの外傷とは言えなかったのだ。

さらに、その外傷をすべて光洋がつけたものと言えるかどうか、についても弁護側は追及した。
野田さんは放浪癖というか家出癖というか、ふらっと出て行っては何日も帰宅しない、そういった行動が見られた。
事実、野田さんが死亡する前日も2週間に及ぶ家出の末の帰宅であり、帰宅するまでの間に何らかの事故、トラブルに巻き込まれていた可能性を否定できなかった。
たとえば、上半身にあった複数の傷は、転落や暴力行為によって出来る傷であると古宮医師は説明したが、野田さんは過去にトラブルで他人から暴力を受けたことがあった。

また、光洋自身も、帰宅した野田さんの右足の甲から出血しているのを見たと供述していた。
自転車で転んだという可能性もゼロとは言えなかった。

空白の24時間と野田さんの怪我

野田さんが警察官に連れられて帰宅したのは、12月1日の23時50分ころである。そして、光洋が野田さんが死亡しているのに気付いたのが、翌2日の21時53分(母親への通話記録から)である。

この、およそ24時間の間、野田さん宅にいたのは光洋のみで、光洋の供述によれば、光洋が野田さんの様子を見に行った際には、野田さんは自室および家の中にいたという。

しかし、ずっと見張っていたわけでもなく、光洋自身も寝ていた時間もあり、その間、野田さんが家の中にずっといたという証拠がなかった。

家出癖のあった野田さんが、いったん帰宅した後、光洋の目を盗んで再び外出したとも考えられたのだ。
弁護側は、それだけでなく第三者が野田さん宅に侵入した可能性についても言及した。

たしかに、野田さんは家に帰りたくない様子だったと、野田さんを最後に連れ帰った警察官は証言した。
弁護側は、野田さんが再度外出した際に事故かトラブルに巻き込まれて負傷し、その後帰宅してから容態が急変したという可能性を挙げて古宮医師に質問を行った。

古宮医師は、事故や自傷によるケガではないか、という弁護側の推測を否定した。
まず、野田さんにはこれまで大きな既往症はなく、死因につながるような病気を抱えていなかったこと、それぞれ個別の傷について、全てが転落などの事故でついたとは考えにくいこと(転落の怪我では見られない内腿の傷があった)、転落したにしては傷の範囲が広く不自然であること、心臓内に血液がなかったことなどから、他害による外傷性ショック死と判断。
そしてこれらをもとに和歌山県立医科大学法医学講座担当の近藤稔和教授にセカンドオピニオンを求めたところ、他害による外傷性ショック死の典型であるとの回答を得たと説明。
弁護側の主張する、病死、転落や自損事故などでのケガではないと証言した。

野田さんの焼損遺体は、両手の肘から先、左足の太腿から先、右足の膝下が焼かれたことで欠損していた。
しかし、残された部分からも様々な「声」を聞くことが出来ていた。
頭頂部には二か所の挫滅、右肋骨が3本折れ、顔面は眼窩部皮下出血、打撲痕、背面には広範囲の皮下出血、胸椎出血、筋肉出血、腰部分にも筋肉出血が認められ、臀部は筋肉が挫滅していた。
そしてそれ以外に、非常に重要な「痕跡」があった。
それは索状物で拘束したと思われる圧迫痕だった。

不可解な圧痕


この裁判では、モニターが活用されていた。
通常、事件現場などをわかりやすく説明するため、裁判員や裁判官らには小型モニターで図や写真が示されることはあるが、傍聴席に向けてのモニターに映し出されることはされないケースもある。
今回、遺棄現場や自宅周辺、そして野田さんの傷など、あらゆるものが傍聴席向けのモニターにも映し出された。

その中で、野田さんの体にあったある「圧痕」が、不可解だった。

野田さんの体は焼損していたため、古宮医師は皮下の状態で判断したという。
そうすると、野田さんの体には、両肩部分から脇にかけてそれぞれ帯状圧痕が残されていたというのだ。
こう、リュックを背負った際の肩紐の位置と符合するのだが、そんなところを縛って意味があるのかな??どういう縛り方?という印象だったのだ。
そしてもうひとつ、右足の大腿部の付け根に、全周性の圧痕も認められた。これはおそらく、欠損している左足にも同様の圧痕があったのではないかと古宮医師は推測した。
そして、これらの圧痕は、野田さんの死につながる大きな要因を作っていた。

野田さんは、頭部の硬膜下血種、多発ろっ骨骨折、そして広範囲の皮下軟部組織損傷が合わさっての外傷性ショック死だったが、なかでも皮下軟部組織損傷が虚血性心機能障害、貧血性ショック、肺脂肪塞栓、腎機能障害を引き起こし、それが死につながった可能性を古宮医師は指摘した。
中でも両肩と右太ももの圧痕はかなり強い外圧がかかっており、大腿部は内出血に止まらず一部は挫滅状態、両肩は線状の皮下出血、筋肉の一部断裂と壊死も認められ、相当な暴力的加害行為と認定した。

その傷が、「ミオグロビン血症」を引き起こしていたと古宮医師は説明した。
ミオグロビンとは、筋肉が破壊されると分泌されるもので、野田さんの血中濃度は120,000ng/mlと異常な高い値(正常値70~100ng/ml)を示していた。
これは、強い圧迫や筋挫滅を受けた筋肉が解放されることで、乳酸などとともにこのミオグロビンが流出しクラッシュ症候群を引き起こし、腎不全などに至らしめる。崩壊した建物の下敷きになった人が、助け出された後で容態が急変することで知られるが、おそらく野田さんも同じような状態に陥っていたとすると、説明がついた。

特に左肩の圧痕は重傷で、おそらくこの圧痕がミオグロビン血症を引き起こしたとされた。

かなり説得力のある古宮医師の証言だったが、弁護人は真っ向食らいついた。

嗤う弁護人


弁護人は、古宮医師に対し率直にこう言った。
「先生は検察からの依頼が多いんですよねぇ。予断持ってませんでした?」
古宮医師は即座に否定したが、弁護人がこう問うたには理由があった。
光洋が8月に起こした逮捕監禁事件があったからである。
弁護人は、おそらく古宮医師がその事実を前もって警察から聞かされていたため、その事件に引っ張られるように判断したのではないかと詰め寄った。
さらに、圧痕についても細かく指摘が続く。野田さんの遺体は焼損していたため、推測での証言も多かった。それについても、縛ったことを前提にしているのではないか、縛っていなくても、打撲などでついた痕の可能性があるのではないか、とにかく「可能性があるかないか」に執拗にこだわった。

もちろん、それは重要なことであり、しかも縛ったことによってミオグロビン血症が起き、それが死因に繋がっているのだからそこは弁護人としても譲れないところだろう。

しかし、ベテランの弁護人は次第に古宮医師を嘲笑するかのような質問をし始める。
それに反応し、古宮医師も当然答弁には慎重になっていったのだが、それがますます弁護人をエスカレートさせた。
肩にあった帯状圧痕についても、長さ5センチ程度しか認められないというのは不自然ではないか、と詰め寄り、古宮医師は「服などが挟み込まれていればそういった状態の痕がつく可能性がある」と反論したが、黙る場面が多くなっていく。
そして弁護人はそもそもこれは圧痕ではないのではないかと言い始め、あげく、死亡推定日時にまで疑問を呈し始めたのだ。
検察からも異議が何度か申し立てられるほど、雰囲気が悪くなっていた。

右太もも大腿部に残されていた全周性の圧痕についても、写真が残されていないことを弁護人は追及した。
写真を撮らなかった理由を聞かれた古宮医師だったが、撮ってないものをなぜ撮らなかったといわれても答えに窮してしまう。弁護人は大げさに
「えーっ!撮ってないんですか?特徴的な痕なんですよねぇ、なのに記録として写真に残さなかった、へぇー」
などと古宮医師と検察を挑発するかのような質問を続けた。

もう古宮医師の背中は怒りで震えているのが分かるほどだったが、弁護人は追及の手を休めない。

そこへ、穏やかな表情の裁判長が
「まぁ、わかんないものをなんで、どうしてって聞いてもね、進みませんからその辺で」
と助け船(?)を出して弁護人からの質問は終わった。

傷の大部分が他害によるもの、という点はゆるぎないと思われた。しかし弁護人は、そうであったとしても野田さんが自宅に戻るより以前につけられた傷の可能性を捨てていなかった(光洋も野田さんが帰宅時に足に怪我をしていたと取り調べの段階から供述している)し、古宮医師による鑑定で「死の直前、数時間から半日以内にできた傷」という点についても、遺体が焼損されていたことなどからずれが生じる可能性もあるとしていた。
野田さんが帰宅するまでの間、本当に何もなかったのか。

翌日、最後に野田さんを自宅へ連れ帰った警察官が証人として出廷した。

12月1日のできごと

公判2日目、死亡する前の野田さんの行動についての検証が行われた。
平成29年7月以降、おそらく、光洋が野田さん宅に頻繁に寝泊まりするようになって以降に絞った検証と思われた。

7月24日と30日、野田さんは近くの集会所で寝ているとことを住民に通報されていた。
その後も8月の12日から17日にかけて、不審者としての通報、そして8月18日に逮捕監禁事件が起こり、その後8月22日から9月20日にかけてもJR西条駅付近で不審者として通報され、11月25日には通報を受けた警察官に職務質問をされていた。

そして、11月27日の昼間にも、他人の敷地(おそらくコインランドリー)に長時間滞在しているとして警察から警告指導を受け、29日と30日にも同じコインランドリーで寝泊まりをしていたようだった。

12月1日午前4時27分、西条市小松のコインランドリーのオーナーから、「不審者が店内で寝ているようだ」と通報を受けた西条西署の警察官が野田さんを見つけ、何度か退去するよう指導したものの、野田さんはパトカーが去ると再びコインランドリーへ舞い戻ってしまうため、3度目の臨場で警察官はパトカーで追従しながら野田さんを自宅に送り届けている。

このことについて、野田さんを自宅に送り届けた警察官が証人として出廷した。

証人に立ったのは、西条西署河原津駐在所勤務のタカノ巡査だった。40代後半~50代前半くらいだろうか、背筋を伸ばし、堂々とした態度で証言台に座った。
彼はその日、西条西署へ応援で呼ばれており、パトカー勤務だった。
12月1日午後9時7分、本署からの連絡で西条市内のコインランドリーへ向かったが、その不審者がいわゆる「有名人」であることは聞いていたという。
しかし、それ以前にも通報(午前4時27分の通報)があったことについての詳細は知らないままの臨場だった。

コインランドリーに到着すると、ガラス張りの店内の様子が外からも見え、ソファに寝転がる人間の足が見えたという。
野田さんを確認すると、特に怪我をしている様子もなく、「店外へ出なさい」というタカノ巡査の指導にも素直に従ったため、その時はそれ以上のことはしなかった。
しかし、午後11時過ぎ、またもや同じコインランドリーから通報があり、タカノ巡査は同僚のオオタ巡査とともにパトカーでまた同じ場所へ急行した。その際に、実はこの日3度目の野田さん関連の通報であることを知る。
常習者であることを知ったタカノ巡査は、自分が行った1回目(通算2回目)の指導よりも強い退店指示をしなくては、と思ったという。

コインランドリーでは1回目と同じ状態で野田さんがソファに寝転がっていたので、「帰宅しなさい」と強く指導したが、ふと野田さんの足元が気になったという。
野田さんは裸足で、サンダルが土間に脱いであった。12月なのに裸足にサンダルでは寒かろうと思ったのでよく覚えていると話した。

野田さん情報として、氷見に自宅があることも知っていたので、自宅を確認すると告げてパトカーで追従することにしたタカノ巡査だったが、「なんで家があるのに帰らないのだろう?」ということも気になっていた。

自転車をこぐ野田さんは、特にふらついたりする様子もなく、時速にしておよそ13kmから15km程度の速さで自宅方面へと向かっていたが、途中、パトカーとの距離が開くと、道路沿いのスーパーやコンビニの駐車場へ入っていったという。
しかしパトカーが見えると、また道路に戻って、後ろを気にしながら自宅へと自転車をこいでいた。

自宅付近に着き、オオタ巡査はパトカーで待機し、タカノ巡査が野田さんを連れて自宅へと向かったが、野田さん宅には明かりがついていて、玄関ポーチにも明かりがついていた。
「誰かおるん?」
そう野田さんに問うと、野田さんは「友達が来とるけど、寝とるけん、起こしたら悪いけん外におる」と言った。
自分の家なのにどうして?と思ったが、野田さんはさらに、「なので納屋で寝ます」と言ったという。
納屋?!と思ったものの、確認すると割としっかりしたつくりの建物であったことや、窓や出入り口もきちんとしていることで、これ以上は踏み込めないと判断しタカノ巡査はパトカーへ戻ろうとした。

野田さん宅の玄関前に差し掛かった時、玄関から男が出てきた。それが光洋だった。
光洋はパトカーを見ても動じる様子もなく、「またどっかにおったん。」と声をかけてきた。
タカノ巡査は、これがその友人か、と思い、少し質問することにした。その時、家の中には光洋以外の人の気配はなかったという。

光洋に対し、身元を尋ねると光洋は玄関内にタカノ巡査を招き入れ、免許証を提示したうえで「自分は野田さんの身の回りの世話をしている」と告げた。
さらに、「金銭管理もしていて、自分も野田さんにお金を貸しているので債権者でもある」などと話したという。

そこへ、パトカーで待機していたオオタ巡査が駆け寄ってきた。
なんと、納屋に入ったはずの野田さんがこっそりまた出ていこうとしていたのだという。
そこで野田さんを見とがめた光洋は、警察官らの前で
「どこ行っとったんぞ!!」
と野田さんに声を荒らげた。さらに、
「お前またローソンでなんか食っとったやろ、わかっとんぞ!」
とも言った。それを聞いたタカノ巡査は、ふたりの年齢差を考え、光洋に対し高圧的な印象を抱いたという。父親ほどの年齢差があるように見えたのに、「お前」呼ばわりとは・・・と驚いたのだ。
野田さんは終始無言だった。

防犯カメラ


弁護人は、タカノ巡査に対して野田さん発見時の様子を聞いていく。
その際、野田さんに変わった点やケガなどはなかったか、ということを確認したいようだったが、タカノ巡査は野田さんから不衛生な臭いがしたものの、体調不良やパッと見てわかるような怪我はなかった、と断言した。飲酒の状態も気にはなったが、酒臭いという感じでもなかったという。
約2時間後の2回目の指導の際も、1回目と変化はなく、追従した際も気になる点はなかったとはっきりと答えた。

弁護側としては、自宅に帰るより前に事故やトラブルでケガを負った可能性についてなんとかタカノ巡査の話から引き出そうとしていたようだったが、一貫してそのような隙を与えない完ぺきな答えだった。言葉選びも非常に慎重かつ的確で、些細な言い間違いであげあしを取られることすらなかった。
追従時もきちんと赤色灯をつけ、他の車の進行を妨害しない程度の速度で、かつ自転車を見失わない程度の距離を保って行っており、警察の仕事としても完ぺきだった。
この時点で野田さんが自宅に帰るより前に負傷していたという線は殆どないと言ってよかったが、それでも弁護人は食い下がる。

「パトカーと自転車の距離は?その間に、別の車が入り込むことはなかった?」

要は、パトカーが一瞬でも野田さんを見失った可能性があれば、その時に野田さんがたとえば側溝に落ち込んだとか、そういう可能性を導き出したかったのだろうが、タカノ巡査は淀みなくそれを否定した。

野田さんの最後の状況については、タカノ巡査の話以外にもう一つの証拠があった。
野田さんがお気に入りだったコインランドリーは、国道11号線沿いにあり、そこでタカノ巡査らに退店を命じられた野田さんは、国道11号を東へと向かった。
コインランドリーから1キロほど進んだ国道沿いに、農機具販売の会社があり、そこの防犯カメラに自転車をこぐ野田さんの姿が残されていたのだ。
野田さんが通り過ぎて数秒後、赤色灯をつけた西条西と書かれたパトカーが追従している様子がしっかりと記録されていた。

10秒程度の映像ではあったが、そこに映る野田さんは、誰が見ても「普通に」自転車をこいでいた。ふらつきもなく、車道の左端をまっすぐに、特にゆっくりということもなく、すいすいこいで進んでいた。

この映像からも、野田さんがこの時点までケガを負っていないことは明らかに思えるためか、弁護人はこの映像をなんとしてでも潰したい思惑があったようで、古宮医師に対して
「たとえ筋肉挫滅があったとしても、それは右足のみであり、ならば(けがをしていない)左足だけでこぐことは可能だったのでは?」
などと、聞いていてちょっとうんざりするような質問を繰り返していた。ただ、冷静さを失いかけていた古宮医師が、その質問に「可能かどうかと言われれば…」と言うなど、奸計にはまってしまう場面もあった。

しかし映像の力は大きく、また、タカノ巡査の応答が非情に冷静であったため、弁護人は次の手をうってきた。

タカノ巡査の「対応」に問題がなかったかを取り上げたのだ。

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