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Evil and Flowers~新居浜・両親殺害事件②~

執着する母親

「実家に帰ってからの関係はどうだったの?」
弁護人に質問された剛志被告は、言葉を選ぶように、あるいは適当な言葉が見つからないのか、ところどころに沈黙を交えながら答えていく。

「親は…多分、最初は喜んどったと思うんスけど、実際自分でわかってなかったけん、どうなんかなと思っとったんスけど…。」

要領を得ない返答に、弁護人が聞き返す。
「親が本当に喜んどるんかどうか、わからんかった。」

剛志は元妻の実家を出る一か月ほど前に、母親にメールで連絡を取っていたという。長い間、剛志から連絡を取ることは一度もなかったわけだが、行くあてが全くなかったために不本意ながらも実家へ戻る許可を求めた。
祖母の葬儀にすら出席しなかった剛志が自分の都合で実家に戻るというのは、いささか躊躇することにも思えるが、剛志が実家を頼れるかも、と考えたのには訳があった。

その一か月ほど前、母親から「重い病気にかかった」という連絡を受けていたのだ。
その時はやり過ごしていた剛志だったが、その母親の言葉から、なんとかして我が息子を家に戻したいという思いがおそらく透けて見えたのだろう。
その剛志からの申し出に、洋子さんは「とりあえず帰ってこんかい。」と伝えた。
実家での生活は、それまでと何も変わらなかったという。
剛志は実家へ戻ると、月に食費として3万円入れ、それから父が購入してくれたという乗用車の代金を1万円ずつ支払っていた。
また、別居状態になった妻子のためにも、毎月10日に養育費を振り込んでいた。
剛志の収入は、年齢的なことを考えてもおそらく20万円あるかないかであったと思われる。税金などをひかれると、もっと少なかったかもしれない。
ただ、妻の実家で同居しているときは妻に管理されていたようなので、実家に戻ることでこれだけの支払いをしたとしても経済的には余裕が出来たと思われる。

しかし、実家での生活は居心地の良いものではなかった。洋子さんの過干渉がまた始まったのだ。
休みの日などは、必ず洋子さんの買い物に付き合わされたという。拒否すれば機嫌が悪くなるため、いつも付き添っていた。
洋子さんは剛志の私物もいちいち確認していた。剛志が購入した洋服があれば必ず洋子さんが袖を通し、アクセサリーなども勝手に身に着けていたという。
携帯チェックも常であった。母に言われたことに、抵抗はするものの最後は懐柔されてしまう。いつしか、剛志にとって母の言葉は一種の「命令」となっていた。
そして、この洋子さんの異常とも思える剛志に対する執着が、じわりじわりと剛志を追い込んでいくことになる。

ゴミ屋敷の住人の迷走

裁判では検察側が提出した証拠として、元妻(裁判時は離婚済み)の証言が取り上げられた。
出会いから事件までのことを、妻なりに証言したものだが、内容はかなり剛志に同情的かつ、両親の異様な言動が述べられていた。

結婚の許しがもらえなかった剛志が実家を出て元妻の実家に身を寄せたのは先に述べたとおりだが、それで剛志が完全に両親から逃げられたわけではなかった。
すでに成人して入籍を済ませた平成27年12月。突然、元妻の実家に剛志の両親がやってきた。玄関の敷居すらまたがず、家にいた剛志を外に呼び出した両親は、
「どうして何の連絡もしないんだ。」「ほうれんそう(報告、連絡、相談)を知らんのか」「盆や正月くらい帰れ!」
そうまくしたてると、剛志を殴りつけ、むりやり連れて帰ろうとしたという。
剛志は入籍の事実も次女の誕生も知らせておらず、どこからかそれを知った両親が激怒したのだ。

当然、全力で拒否する剛志と、両親そして元妻も入り乱れての乱闘騒ぎが家の軒先で繰り広げられたが、その際、母親の洋子さんが元妻らを小馬鹿にするような発言をしたという(詳細不明)。
そこへ、元妻の実母が出てきて、騒ぎ立てる剛志の両親に対し、
「あんたらとこみたいなゴミ屋敷に連れて帰らせるわけにはいかん!」
と言ったところ、それまでの勢いは消え、父親の勝浩さんが洋子さんを連れて踵を返したという。

そう、冒頭の間取り外観説明で私が抱いた違和感はこれだったのだ。
もしかしてゴミ屋敷?そう思っていたのだ。閑静な住宅地で丸見えのゴミ袋がいくつも放置されているのははっきり言って「異様」である。
剛志も法廷で証言していた。

「子どもの頃からぜんそくとアトピーに悩んできた。それなのに、両親はタバコをやめてくれんかった。中学の頃はアトピーが一番ひどく、顔を掻きすぎて眉毛が全部抜けていた」

実は元妻の母親が剛志の同居を許したのは、これのせいだった。
もともと、元妻の母親も剛志に対して良い印象を持っていたわけでもなく、苦々しい思いは抱いていたという。
しかし、ある時実家の惨状を聞き、さらには幼いころからの待遇を知った元妻の母親が同情し、「あんな家には帰せない」となったのだ。

この事実を突きつけられた勝浩さんは、あれだけ怒っていたにもかかわらず、なぜかぷいと帰って行ってしまった。
おそらく、痛いところを突かれたのだろう。逆ギレしない辺りは、勝浩さんの生真面目な一面とも思える。
その後、母親が一人で訪ねてくるなどもあったようだが、結局6年間、剛志と両親は絶縁状態が続く。

そんな状態を経て、平成30年6月5日、剛志は実家へ戻った。
妻とはLINEで連絡を取り、妻もまた、子どもの写真や日常のことなどを頻繁に伝えていたという。
妻には離婚の意思はなかったが、心の奥では無理かなとも感じていたようだ。その上で、友達も少なく若くして父親になったために遊ぶことも知らない剛志に対し、好きにさせてみようと思ったという。
(どうでもいいが、新居浜西条あたりの、愛媛で言うところの「東予の女」はこういうキップが良いというか、男前な女性が多い、ような気がする。)
離婚になっても仕方ないと思い始めていた矢先、あれほど怒っていた勝浩さんから、条件付きで結婚を許すという連絡が入った。
その条件とは、
①高平姓を名乗ること
②実家を出て4人(夫婦と子供二人)で生活すること
であった。そして、それが出来るようになるまでは、毎月10日に生活費が振り込まれた。
優しくなった剛志の両親に対し、妻も歩み寄り、子どもたちを預けることもあったという。

ところが1か月後の7月上旬。突然剛志にLINEをブロックされてしまう。
理由もわからないまま、しようがないので妻は連絡をしないでいた。すると、剛志の両親から離婚を迫れたのだ。
ついこないだまでは離婚はやめろ、と言っていたのに、今度は離婚を強引に持ちかけ、あげく、妻の自宅のポストに記入済みの離婚届を入れてきた。
しかもご丁寧に、妻の欄まで記入済みだったというから恐れ入る。(ただ、妻は職業欄に無職と書かれたことにエライご立腹だったw)
当然、夫抜きに離婚の話には応じられないとし、勝浩さんに対し、剛志本人に連絡させてほしいと頼んだ。洋子さんは、聞かれてものらりくらりはぐらかすだけだった。

10月の初め、ようやく剛志から連絡が来て、LINEをブロックしたことを謝罪されたという。その際、離婚についてのやり取りをしたものの、10月末にはまた連絡が取れなくなった。
11月、再び離婚の話し合いで会った際、剛志から離婚届を渡された。しかしここで妻は、公正証書を作成してほしいと要求。離婚は進んだようで進まず、クリスマスの日に子どもたちに渡すプレゼントを受け取るために会ったのが、剛志と妻の最後だった。

1月9日の事件当日。午前11時38分。
「お疲れさん。今日会えるかい?」
剛志からのLINEに、妻は「会えるけど、子供どうする?」と返信した。
ただ、すぐに返信できなかったため、返信したのはおよそ1時間後の午後12時26分だった。
以降、剛志からの連絡は途絶えた。この時、高平家は邪悪なものに侵食されつつあったのだ。

Aさん

検察側は、元妻の証言に続いて不倫相手であったAさんの証言も読み上げた。
不倫を咎められたとはいえ、それは親子間の問題であり、夫婦間の問題ならばいざ知らずなぜ不倫相手の証言がここで証拠として提出されるんだろうと、最初は疑問だった。

Aさんと剛志の出会いは、先述の通り会社での飲み会の席だった。
意気投合した二人だったが、実際に不倫関係になったのは出会いから半年ほど先で、その時点でも「正式な交際」には至っていなかった。
Aさんは剛志にとって、数少ない「愚痴を吐き出せる相手」で、離婚話や両親との関係もことあるごとに話していた。元妻の実家を出て家に戻ることになった際は、Aさんから見れば剛志は安堵しているようにも見えたという。

剛志が実家に戻って以降は、それまでよりも頻繁に会うことが多くなった。そして平成30年7月20日には、離婚は成立していないものの、「正式な交際」に発展した。
そのころ、両親と剛志はうまくいっているように見えたようだったが、母親の過干渉がひどくなるにつれ、剛志が家に居場所がないとこぼすようになった。
それでもAさんは、両親に心配をかけてはいけないし、言いたいことがあるなら親なんだからはっきり言ったらどうか、と剛志を窘めることもあったという。

9月になって、剛志が会社や車で寝泊まりしていることを知り、想像以上に追い詰められていると感じたAさんは、一時的に自宅に来れば、と剛志に持ちかけた。
Aさんには二人の子供がいたが、2週間ほど剛志はAさん宅で生活した。しかしある日、突然剛志の両親がAさん宅を訪れた。
剛志とAさん、両親の4人で車の中で話し合いを持ったというが、その時の母親・洋子さんの淡々としていながらも強烈に発せられる圧力は、Aさんにとって十分すぎる脅威だったようだ。
「これからどうするの?」
そう聞かれた剛志は、「Aさんと一緒にいたい」と話した。しかし、突然のことに恐れをなしていたAさんは、「今は何も考えられない」というのが精いっぱいだった。

その後、剛志は両親に連れられ実家へと戻ったが、この時のことがよほど堪えたのか、Aさんは剛志に「やはり不倫はよくない、別れよう」と告げた。
しかし剛志はそれを断固拒否。その時点ではうやむやになってしまう。

10月下旬、Aさんに突然洋子さんから電話があった。
「まだ付き合ってたん?私らに嘘ついとったん?慰謝料請求するよ。」
妻からならわかるが、なぜ母親が!?そう思う以上に、Aさんは恐怖を感じていた。そもそも、Aさん宅を両親が突き止めたのは、洋子さんが市内中を剛志の車を捜し歩いて発見したのだ。しかも、家とは関係ない場所の空き地に停めていた車から、周辺の家やアパートをしらみつぶしに調べ上げ、ポストも確認してAさん宅を探し当てたのだった。
洋子さんの執念に慄いたAさんは、今度こそ剛志に一方的ではあったが別れを告げた。

剛志からLINEがきても既読スルーを続けていた10月23日、再び洋子さんから怒りの電話がかかってきた。
「剛志が会社に行ってない!あんたと一緒におるんやろ?」
剛志はこの日から行方不明になっていた。

ゴウダさんの話

剛志が会社を無断欠勤したのは、10月23日からだった。平成26年、ハローワーク経由で入社した剛志は、まじめで、残業も嫌がらず、これまで会社内でのもめごとなどもなかった。
上司のゴウダさんは、これまでも剛志に目をかけてきたつもりだった。
若くして子を持つ父親であると知った際、家庭の状況が複雑であるというような話も耳にしたが、深くは立ち入らなかった。

そんな剛志が、家庭の悩みを口にしたのは入社して1年が過ぎたころだった。
社長も交えての話し合いで、ゴウダさんはなんとか若い夫婦がうまくいけばいいと願っていたが、その後の展開までは知り得なかった。

剛志が無断欠勤をした日も、剛志の性格やそれまでの経緯などを考え、しばらくは大事にせず様子を見ることにしたが、剛志の無断欠勤は5日に及んだ。
さすがにこのままにもしておけず、ゴウダさんは実家へ連絡を入れる。
すると、応対した洋子さんから、
「迷惑をかけて申し訳ない、もうクビにしてください」
と言われ面食らう。心配より先にクビにしてくれというのは突飛な気がした。

ゴウダさんに対し、洋子さんは続けてこう話した。
「あのー、そちらの会社にAさんていう方いますよね。仲がいいみたいだから、その人が知ってるんじゃないですか」

ゴウダさんは言葉の真意が分からずにいたが、続けて洋子さんから剛志とAさんが交際していると知らされ驚愕する。
そうこうしていると、剛志本人からゴウダさんに電話がかかってきた。
「どこにおるんや」
そう聞いたゴウダさんに、剛志は今治市内にいると伝えた。聞けば、車で彷徨いながら松山市内の山中までやってきたものの、ガス欠になり、所持金もないために松山の山中から今治まで歩いて移動したというのだ。
松山市は、道後温泉から石手川ダムに抜けて国道317号線を走ると、そのまま今治市玉川町に出る。剛志がどのくらいの距離を歩いたかは定かではないが相当な距離と思われる。
ガス欠の車は山中に放置したままだった。

ゴウダさんは実家へと剛志を連れ帰り、その後剛志は社長にも謝罪した。実家へ連れて行った際は、剛志も両親も冷静だったという。

11月に入って、会社では剛志とAさんが呼び出され、ことの顛末を問いただされた。
個人的なことに会社が首を突っ込むのもどうかと思われたが、やはり不倫であることは無視できず、この場でふたりはプライベートでは会わないと約束させられた。
ゴウダさんは、この時の二人の様子から「もう深い付き合いはやめるだろう」と信用していたという。

その後、ゴウダさんのもとには洋子さんから頻繁に電話が入るようになっていた。
しかしその内容は、およそ24歳の息子に対するものとは思えないようなものだったという。
「剛志が帰ってこないんですけど、Aさんとまだ会いよるんやないですかねぇ・・・」
帰ってこない、と言ってもまだ午後9時ころであり、ゴウダさんにしてみれば心配すると言ってもちょっと度が過ぎているのでは、とも思うようになっていた。
その後も洋子さんからの連絡は続き、辟易したゴウダさんは、会社の同僚らと口裏を合わせ、剛志が残業していたように装うこともあった。

年が明けた平成31年1月9日。
13時前に洋子からの着信があったことに気付いたが、仕事中であったためにそのままにしていた。
仕事が終わった夕方17時53分。ゴウダさんはとりあえず電話を折り返してみたが、その電話が応答することはなかった。

精神鑑定医

公判二日目。
法廷には剛志を精神鑑定した、特定医療法人清和会の和ホスピタル副院長で、認定精神鑑定医の有家佳紀医師に対する証人尋問が行われた。
有家医師は年齢から考えてもベテランの医師であり、長く松山市にある超有名精神科病院、松山記念病院で勤務した後、老人保健施設なども運営する海辺の自然豊かな病院の副院長を務めている人物である。
実はこの病院は、友人や親せきが勤務しているのでよく知っているのだが、心のケアに重点を置く病院である。

まず、有家医師が面談で聞き取った剛志のこれまでについての話があった。
幼いころは高木町の家で母方の祖母と同居していたこと、勝浩さんは電子部品を製造する工場勤務、洋子さんは事件当時は専業主婦であったという。
洋子さんは平成10年ころまでは仕事をしていたという。しかし、そのころから精神科への通院歴があった。

つづいて、剛志からみた、両親の姿、両親との思い出に話が移る。
両親はケンカが絶えない関係だったという。剛志は一人っ子ということもあり、家の中では委縮していた。
剛志の思い出の中で一番辛かったことについては、1日目の弁護人からの質問では
「むりやり入れられたお寺の塾が一番嫌だった。手をあげる先生で、成績が上がることもなく、やめたいと言っても親には聞き入れられなかった」
と話していたが、有家医師には、洋子さんからされた信じられない出来事を話していた。

剛志は高校在学中より近所のガソリンスタンドでアルバイトをしていた。
平成26年5月、剛志が17歳の時、部屋で寝ていたところ洋子さんがこっそり部屋に入ってきたという。母親の気配に気づいた剛志が起きると、自分の財布の中にあったはずのアルバイト代4,000円が消えていた。
すぐさま洋子さんの後を追い、金を返すよう迫ったが、洋子さんはすっとぼけた。
もみ合いになっても洋子さんは頑として認めず、この時剛志は初めて暴力を振るった。
左の拳で母親を4回殴ったが、それでも4,000円は戻らなかった。

剛志の暴力行為は、この後事件を含めると4回あったという。
お金を盗られた事件の直後、実家を出て元妻の実家で暮らしていた平成26年の夏、自転車で登校する剛志の前に、洋子さんが立ちふさがった。
驚いた剛志は、無言で洋子さんを自転車でひき逃げた。さらに翌年3月、元妻と口論になった際に妻にビンタをした。
そして、4回目は事件直前の12月23日と24日。この日、高平家ではその後の事件に大きくかかわってくる、ある出来事が起きていた。

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