真っ白
「ええっと、Merry Chir...あれ、違うな」
何年続けても慣れない英語に情けなさを感じながら、男は間違えたところに修正液を垂らす。
「そもそも最初っから間違ってたんだよ、何もかも」
はあ、と吐く息には白いものが混じる。俺の髪の毛も一緒だな、と男は思う。気にして染めいた頭が白くなるのに任せるようになって数年が経った。もう若作りを気にするような歳でもないのだ。
乾いた修正液の上から、今度は正しい綴りを打ち込む。C、h、r、i、s、t、m、a、s。ゆっくりと、不規則なリズムでキーが音を立てる。年に一度、そのタイプライターは姿を見せる。もともとは西欧趣味のあった祖父が買ったものを、英語ができぬ、とすぐに仕舞いこんでいたものだった。男が教会で結婚式を挙げると伝えた時に、これでお嫁さんに手紙を書きなさいと渡されたまま、祖父は亡くなってしまった。孫の顔を見せてやることは叶わなかった。
「How...are...you...doing....と」
男も英語ができるわけではない。妻に手紙を書くこともなかった。今、男の手元には使い古したポケット和英辞典と、英会話に役立つ表現の載った小ぶりな本が広げられている。15年前、引っ越した先の近所にあった古本屋で買ったものだ。今もその部屋に住んでいる。古本屋は店主が老齢で店を畳んでしまった。跡地には真っ白な内装が目を引く衣料品店ができた。街はどんどん変わっていく。男は、自分が街に取り残されているような気分をぬぐうことができなかった。
4年間の結婚生活に幕を下ろしたのは妻の方だった。二人が交際を始めた頃、男は小説家になりたかった。妻はその夢を応援したいと言った。そして、二人でその夢を追いかけようとプロポーズをした男に、妻は涙しながら頷いた。
しかし男の夢が花を咲かす未来は一向に見えず、定職に就くでもない。家庭が困窮するのは当然の結果だった。それに加えて二人には子どもができた。ますます生活は苦しくなった。そして、男が30になった誕生日、妻は小説家を諦めてくれと懇願した。現実を見てほしい、この子の未来を考えてほしい、と。男は首を縦に振らなかった。夢を諦めきれなかったのだ。涙する二人を、何も知らない娘は不思議そうに見つめ、ただティッシュを渡したのだった。
離婚が成立し、親権は妻のものとなった。異論の立てようもなかった。男は娘に会うことも許されなかった。ただ、年に一度だけ、手紙を出すことを許された。それから15年、毎年こうしてクリスマスに手紙を書いている。今年、娘は18歳になった。高校を卒業する年だ。進学をするのか、就職をするのか、はたまた他の道があるのか、男には想像もつかない。人生を左右する年だ。ティッシュを持って佇んでいたあの娘が、もう立派な大人なのだ。
もうこんなプレゼントで喜ぶ歳じゃあないよな、と思い始めてからもう何年経つだろう、しかし何をあげたものかわからない男は、今年もぬいぐるみを用意している。
「全部間違ってたんだ。何もかも。ダメな人間だ...」
窓の外は大雪だ。明日の朝には真っ白に塗り替えられた街が男を迎えるだろう。男の眼には涙が浮かんでいる。情けなさなのか、悔しさなのか、苦しさなのか、それは男にしかわからない。
「f..r....o..m...Sa..n..t..a....C..l..o....」
綴りを間違えた男は修正液を手に取る。
「覚えていないでくれ...忘れていてくれ...」
そう願いながら少し待って、男は差出人のない手紙を書き終えるのだった。
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