文取り
柳の下に猫がいると猫柳になるらしい。それでよいのだと云い伝えられておる。下にいてさえ柳の頭に乗っかっておるこの猫は、柳の家にとってなんぴとたりとも比肩し得ない神聖なる存在である。
柳の家と云って無論柳の木を組んで作った家ではなく、柳と云う男の住まう家である。
柳は傷つきやすく悲観的で、しばしば頭を垂れて歩いている。その様子を見て枝垂れ柳ならぬ項垂れ柳だとからかう者も時折いる。
少年時代、柳は深く掘られた穴に落ち、抜け出そうとすれば側壁が崩れ、もがき苦しみあがいた末に、首から下がずっぽりと埋もってしまったことがある。枝垂れも項垂れもしない、首だけ柳だと囃し立てる同窓の子供らに助けを求めるも、首だけ柳首だけ柳と節をつけて歌い踊る彼らは柳をおいて夕暮れに烏と一緒に帰ってしまった。幸いなことに石を投げるような不届き物はおらなかった。不安に苛まれ、そうかこうして死んでゆくのだ、あっけない人生、不条理な浮世!埋まっていても浮世!と涙を堪える柳を救ったのは猫であったと云われている。
時は秋、鶴瓶落としに日は沈み、辺りはいよいよ冷え込んでくる。腹も減る。あなこれまで、両親より早くに世を去るとはなんたる親不孝!そう思い、ひぃひぃと短く嗚咽を漏らす柳の様子を通りがかった猫がじっと見ておる。わたしはこのまま土へ還るのだ、放っておいてくれと柳は猫から目を離した。しかし猫の方ではしばらく見つめた後に、にゃあと一声啼いて柳の方へ歩を進める。猫でも人を喰うのだろうか、わたしは贄としてこの猫に捧げられるのだろうかと柳は思う。柳家にとり何よりも神聖な猫である。聖餐だ。そうなのだ。猫ならいいか。と心を決めつつ近づいてくる猫に身動きのとれぬなりに身構えた柳であったが、不思議なことにその猫が大男の形をとり、えいやっとばかり一息に柳を地面より引き抜いてしまったのだと云う。柳は額を地面に擦りつけんばかりに猫に頭を下げ、お礼のしるしにと懐に山のように抱えておった小判を差し出した。
そんな小判はどこにもなく、柳がその日持っておったのは、辺りに生えておったのを引き抜いたすすき一本ばかりである。柳を助け出したのも猫ではなく、月が昇って未だ帰らぬ柳を案じた父親であった。引き抜いたと云うようなものでも断じてなく、せっせと穴を掘り返して助け出したものである。柳の見た猫は、柳の夢に過ぎぬと云うことだ。首だけ柳は首だけになってさえも眠っておったのだと父親は云う。
しかし不思議なことに、柳の父もまた、猫の声に導かれ柳の元へ辿り着いたのだそうだ。にゃあにゃあと啼く声が、こっちだこっちだと云うておるようにしか聞こえず、駆け寄って見ればしゃんと背を伸ばし座る猫の横に首だけ柳が埋まっておる。柳を掘り起こした父親もまた、柳をおぶって連れ帰る途上、父子を塀の上より見つめておった猫に甚く感謝をし、腰に結び付けておった袋一杯の小判を差し上げたと云うておるが無論父とて小判など持ち合わせておらぬ。そもそも裕福な家でもない。家中探し回ったところでそう小判など見付かるものではない。
家では母親と柳の弟が手を合わせ柳の無事を祈っておった。しばらく黙祷を捧げておるうちに、二人の頭上に燃ゆるような明々とした光が射した。これはなんだとばかり目を見開く母親の耳ににゃあと猫の啼く声が聞こえる。すると光の中から座を組んだ恰幅の良い猫が現れるではないか。猫は母の目を少しばかり上にいった辺りまで降りてきたところでゆらゆらと佇む。
「案ずるでない。もう一時の辛抱で息子は無事に戻り、その腕に抱かれるであろう」
にゃあ、という一啼きにそれだけの意味を聞き取った母親が軒先を見れば、月明かりを背に父子が仲良く手をとって向かってきているではないか。猫はまたにゃあと一啼きし、父子に手招きをしておる。よく見れば父子の歩みは猫の手招きと同じ拍を数えておる。あなうれしや、猫が二人を連れ帰ってくれたのだ!母親と弟は、お礼にこちらをおとりくださいと床下に隠しておった葛籠一杯の小判を差し出した。
ところで息子をおぶって父が揚々と家に戻れば、息子を、兄を案じるばかりに疲れ果ててしまった二人、正座を為し頭を垂れて、こっくりこっくりと船を漕いでおる。家人らの見た猫もまた現の者ではなく、小判の逸話に至っては云うまでもない。
しかし翌日、互いの身に起こった猫との邂逅を話すや、これは笑いごとでは決してない、猫が家を救ったのだと確信を持ち、家中から小判を掻き集めて毎日のように魚をねだりにやってくる野良にくれてやり、末代まで猫を崇め奉ることを誓ったのだと云う。柳一家は元より神聖な者であった猫をそれまで少し疑っておった。庭に糞はする、軒先の金魚も食ってしまう、たまに何か持ってくると思えば死んだ鼠である。夏であれば蝉のこともある。それもこれも猫である。猫ならいいか、と諦めてきた。これがうちの守り神なのであると。しかし猫が柳を救ったとあらば考えを改めねばならぬ。猫様はやはり猫様であったのだ。これまで向けてきたあらぬ疑いを詫びる柳一家の気持ちが、家中を隈なく探し、地盤を掘り返して最後の一枚の小判まで差出したことに見てとれる。この作業の代償として地は緩み、柱も欠けて家は傾き、しばらく後に潰れてしまったということだが、猫を崇めることで事なきを得た。
無論、小判など、どこにもない。
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