『文体の舵をとれ』練習問題⑥
※問題を引用してよいものかわからなかったので習作だけ載せています。どういう文章なのか気になる人は本を手に取ってね。(ル=グウィン、アーシュラ・K『文体の舵をとれ』大久保ゆう訳、フィルムアート社、二〇二一年。)
一作品目:
老女はせわしなく、背の綻びたノートを繰っている。もうすぐ卒業論文の提出期限を迎えるのだ。老後の余暇にと、彼女は大学に通っている。新しい事を学ぶ動機や気力はなく、昔取った杵柄と言わんばかりに、四十数年ぶりに国文学を学び直している。このノートも、その頃からずっと彼女の本棚に鎮座し続けている。ふとした時に取り出しては眺め当時を振りかえるというのが彼女の習慣であり続けていて、そうした郷愁の時間は、キーボードをどんなに必死に叩いても、指先が一向に温まらない一月の日々においても同様に訪れる。あの時みたいに、お父さんがここにいてくれたらいいのに。目をつむった彼女の瞼の裏には、今とは違う、古びていてかび臭い図書館の机が広がっている。今日もいるんですね、と青年が彼女に話しかける。ええ、もうすぐ締め切りなもので。彼は返却済みの本を山と積んだ車を置いて、彼女の手元をのぞき込む。お仕事、放っておいちゃだめなんじゃないですか。いいんですよ、図書館に慌ただしいのは似つかわしくありませんから。それは私への皮肉に聞こえちゃいますよ。ええ、皮肉ですから。どんなに切羽詰まっていても彼女が図書館に足を向けていた理由が、彼だった。一時の楽しみだと、この時の彼女は思っている。せめて卒業するまでは、ただ恋をしていたい。許嫁なんてまっぴらごめんだと思いながら、それを呑んで大学に通わせてもらっている手前、父の命令には背けない。でも、と今の彼女は振り返る。ちょうど手元には、彼がいたずら書きをした小さな文字が躍っている。少し掠れ、インクの薄れたボールペンの文字。文字はそこで動き出し、紙面を泳ぎ、形を変える。ぼくが掛け合ってあげるよ。お父さんはそう言ってペンを握る。直接会いに行くんじゃないの?行くけどね、まずは礼儀が大事だと思うんだ。そう言って、袋にたくさん買ってきた茶色の封筒に手をのばす。筆ペンの蓋を口で外す。彼の動かす腕がこれから書き出すのは、果たし状、という四文字だ。彼女は思わず笑いだしてしまう。今もまた、笑っている。お父さん、今、何をしているのかしら。
二作品目:
今私は、せわしなく、背の綻びたノートを繰っています。もうすぐ論文の提出期限を迎えてしまうのです。老後の余暇にと大学に通い直している私はには、新しい事を学ぼうという意思も元気もなくて、四十数年ぶりにまた、国文学を学び直しています。昔取った杵柄、というやつですね。このノートも、その頃からずっと私の本棚に鎮座し続けています。ふとした時に取り出して、当時を振り返ってみたりします。忙しくしている今この時でも、どんなにキーボードに向かっても手の温まる様子のない一月の寒さに凍えてしまいそうになりながら、ノスタルジィに駆られているのです。あの時みたいに、お父さんがここにいてくれたらいいのに。目をつむると、あの頃の古くてかび臭い図書館が目の前に広がるようです。ああ、そうだった。今日もいるんですね、と、男の人が私に話しかけてきたのです。ええ、もうすぐ締め切りなもので。彼は、返却済みの本を山と積んだ車を置いて、私の手元をのぞき込んできました。お仕事、放っておいちゃだめなんじゃないですか。いいんですよ、図書館に慌ただしいのは似つかわしくありませんから。それは私への皮肉に聞こえちゃいますよ。ええ、皮肉ですから。彼がいたから、私はどんなに切羽詰まっていても、なんとか図書館に通い続けたのでした。ちょっとした楽しみのつもりだったのです。私は許嫁として、父の決めた相手と結婚するということを条件に、大学に通わせてもらっていました。本当はまっぴらごめんだと思いながら、吞んでしまった条件には逆らえない、そう思っていたのでした。でも、そうはならず、今があります。目を落とせば、開いたページには彼のいたずら書きが躍っています。少し掠れて、インクの薄れてしまったボールペンの文字。見ていると、文字がそこで動き出して、紙の上を泳ぎまわり、形を変えるように思えます。ぼくが掛け合ってあげるよ。お父さんはそう言ってペンを握りました。直接会いに行くんじゃないの?行くけどね、まずは礼儀が大事だと思うんだ。そう言って、袋にたくさん買ってきた茶色の封筒を一つ取り出しました。そして、筆ペンの蓋を口で外した彼の動かす腕は、果たし状、という四文字を書き記しました。私は思わず笑いだしてしまいました。今もまた、笑っています。お父さん、今、何をしているのかしら。