なぜ医者は失敗を認めないのか
医者になって思うことのは,「医者ってなかなか失敗を認めないなあ」ということ。院内で重大な結果に繋がりかねない出来事や状況について報告するインシデントレポートという制度がある。これについて医師の報告率はいつも低い。これはなぜなのだろうか。
今回,『失敗の科学』という本の紹介も兼ねて記事を書いた。失敗を有効活用して極限まで重大インシデントを減らせる組織もあれば,隠蔽して有効活用できない組織もある。それらの構造的な違いや問題について,科学的に迫った良書だ。
この本はAmazonのプライム会員ならKindleで無料で読める本に選定された。環境の整っている方はぜひ読んでもらいたい。
この本を呼んで,なおかつ自分の体験や感想も交えて記事を書いてみた。
失敗から学ぶ体験
失敗から学ぶ絶好の体験は受験勉強であったと思う。残念ながら現役生の頃にはこのことに気づかなかった。私がこのことに気がついたのは学士編入試験のときだった。
あらゆることに共通するが,おとなになると若い頃のようにゴリ押しで知識を詰め込むことができなくなる。おとなになるにつれて体力,集中知力,そして素直さがなくなる。その代わりに若い頃より知恵が身についている。絨毛爆撃のような戦略から,効率化を目指した勉強をするようになるのだ。
効率的に勉強をしようとすると,すでに定着した知識を頻回に確認するのは時間の無駄である。解けなかった問題にこそ自分の弱点を露骨に教えてくれる絶好の教材なのだ。これに気づいたときは,ものすごいことを発見した気がした。
医学部でも経験する失敗からの学び
医学部(特に医学科)の定期試験は,他学部のそれとは一線を画すものだ。私が工学部にいた頃は「この単位は捨ててもいいや~」なんて気軽に諦めたものだが,医学部ではそうはいかない。医学部で捨てられる単位はほとんどないからだ。つまり定期試験はすべてパスすることが前提であり,それ無しには次に進めない。
そのような DEAD OR ALIVE の文化の中で,医学生たちは迫りくる難敵に対して「草食動物の群れ」よろしく集団として立ち向かう。あらゆるツテをつかって過去問を取り寄せ,集団の分散頭脳を統合して解答例を作成する。普段はたがいに繋がりの希薄なグループ同士も,試験期には積極的に協力し合う。
一方で,群れからはぐれる個体もいる。はぐれ個体は膨大な知識量の医学部定期試験サバンナにおいて,突出した個人の能力がなければ生存はかなり厳しくなる。特に「過去問」にありつけなかった個体の生存率は限りなくゼロに近づく。
この「過去問文化」は失敗からの学びにほかならない。失敗からの学びとは過去からの学びという側面もあるからだ。
さらに過去問を解き進めて個人の知識の穴が蓄積していき,それがまた復習の宝となって学びは効率化を高めていく。全国の医学生はこうして厳しい定期試験,ひいては医師国家試験にも対応しているのだ。
日々進歩する医学の大草原を,一から学び直すなんてことは到底できない。失敗からの学びの真髄はここにある。
そしてアメリカ32代大統領夫人,エレノア・ルーズベルトの言葉につぎのようなものがある。
「人の失敗から学びましょう。自分で経験するには,人生は短すぎます」
失敗を認めない原因
これまで見てきたように医師は受験戦争を駆け抜け,DEAD OR ALIVE の定期試験をくぐり抜け,最終的には医師国家試験もパスしたひとたちだ。それぞれの関門で「過去問」を利用し,「解けなかった問題」を復習して知識を定着してきたはずだ。それなのに医師になると失敗の重要性を忘れ,認めなくなるのはなぜだろうか。
個々が埋もれるほどの人数がいない
同じ組織の他職種として看護師がいる。看護師も医学科と同程度に厳しい試験地獄をくぐり抜けているし,国家試験だってある。看護師は入職後もインシデント報告がスムーズに行われている(すくなくとも医師よりは)印象がある。これについて直接看護師に聞いて回ったことがある。そこからわかったパターンは,個々がクローズアップされにくい状況にあると感じた。
看護師は医療ケアの最前線におり,それはすなわち数え切れないほどの直接的な手技の連続だ。手技は数が多ければ多いほどインシデントが生まれる。それを,日々大量の看護師が報告するため,相当突出した悪質なものでなければ,個人が吊るし上げられることはあまりない。
一方で,医師はそもそも人数が少ない。それゆえに「大群の一部」になることができず,良いことも悪いことも常にその「個人」とセットになる傾向にある。それゆえにインシデントという聞こえの悪い出来事については,個人の評判を落とす懸念と直結しやすいと感じる。病院の各所で「あの先生は◯◯よねぇ」というウワサ話をよく耳にするのがそれを物語っている。
大々的に取り上げられる医療訴訟
昔に比べて医療訴訟は多くなったし,報道される機会も多くなった。明らかにおかしな事件もあるが,「それを悪く言うのはちょっと違うだろう」というものまで含まれる。マスコミはここぞとばかりに悪徳医師による苛烈な悪行かのように騒ぎ立てる。最終的には医師の責任がなかったとされても,その頃には風化して誰も報道しない。騒がれたもの負けの状態がまかり通っている。またそんな時代だからか,医師の側も二言目には「そんなんじゃ訴えられて負けるぞ」という始末だ。
この状況において,真の意味で「インシデントからの学び」の環境はない。あるのは,「いかに訴えられない様にするか」という誤った目標設定だけだ。
そもそもインシデントの多くはシステムの問題であり,その責任を個人に帰結させるのは安直で学びがない。結局,「その人だけの問題」という思考停止に陥るからだ。
失敗の温床を作る政府
さらに悪いことに,本来であればインシデントの撲滅の陣頭指揮を取るべき立場の政府がインシデントの温床を作ろうとしている。医療の世話になる高齢者が増える中,医者の数が足りず医者だけは過労死時間を超えての労働を認めようという動きだ。
そもそも医師の数は厚労省のさじ加減の範疇であり,医療費や保険診療の舵取りの失敗を医師の過重労働に押し付けるのは筋違いだ。
過重労働は医師から適切な判断力を奪うものであり,インシデントの温床となることは明白である。しかしいざインシデントが起きれば「医師個人」のせいとされ,背景の労働環境なんか考慮されないだろう。
このような悪環境とよく対比されるのがパイロットの労働時間だ。
他人の生命を預かるという点で同じ責任を負うのに,なぜ医師は過重労働を許容され,パイロットは疲労対策が講じられているのだろうか。普通に考えればパイロットのような対策が合理的だろう。
こんな状況では今後さらにインシデントは増え,そして相変わらず隠蔽されていくのかもしれない。
あらためて失敗から学ぼう
医師を取り巻く環境は,個人をあぶり出し,吊し上げ,さらには過重労働により冷静な判断力を奪うような状況にある。それは,失敗を報告しづらくする一方で,失敗を誘発しやすくしているようにさえ感じる。非常にまずい環境が整っているのだ。
それでもなお,失敗から学ぶことは,一から総ざらいすることよりも極めて効率的であることに変わりはない。そしてそれは自分のためではなく,他人(患者)に不要な危害を加えないためにも重要である。
今後は ”厚労省のおかげ” でインシデントが増える土壌が整っていることもあり,冒頭で紹介した『失敗の科学』も参考にしながら,失敗のない医療を提供していけるようになりたい。