父の開いた家族会議
ある日、仕事帰りに父から電話がかかった。
たしか、あれは1月2週目に入る頃だったかな。
『今日夜家におるか!?』と
その日久しぶりの友達とのご飯を約束していた。
そのことを伝えると、それは優先しろ!と
言われた。しかし、もやもやしていた。
でも、キャンセルするまでもないのかな!?
自分の中でモヤモヤが消えないが、
友達と食事に行くことにした。
家に帰ると、父が明日は空けといて欲しいと。
何のことだろう。嫌な事ばかり考えていた。
その翌日、仕事を終えて帰宅。
弟も部活を終えて帰宅。
その時にみんなで集まり、父が話し始めた。
実は5月に転移している事を知らされた事。
今まで年単位で物事を考えるように伝えられて
いたのが、5月からは月単位で考えてほしいと
告げられたという事。
そして、今月からは週、もしくは日にち単位で考えて欲しいと言われた事。
家族で泣いた。父も泣いていた。
続けて私と弟にこう言った。
『何があっても、お前たちはかけがえのない宝物だ。』
父は絶対こんな言葉を口にしない。
女の子というより野生的に育てられた私は
どこに捨てられても生きていけるように!と
育てられたのだ。
私たちはひたすら泣いた。
そして、父『俺は本を作りたい。』と言った。
その題名『地元の頑張ってる人たち』だった。
周りのみんなを応援するまでだった。
ただ、みんなを紹介したいが、そんなに余裕はない。どうにか絞らないといけない。
毎日メモにコツコツ書いていた。
ずっと入院中からメモをしていたようだ。
その計画に何人もの人が関わってくれた。
仕事の合間をぬって、父にデザインを
聞きにきてくれた。
みんな全力で協力してくれた。
亡くなる日の夜
全員分の写真が揃った事を報告してくれた。
そして父は安心して頷いた。
弟もその冊子に載ることになった。
お通夜の日、弟は撮影してもらい何とか間に合った。
そして、1番最初の記事にも書いたように1,000人を超える人がお通夜に来てくれたのだ。
それから祖母は仏壇の番をする。と
なかなか外に出なくなり弱った。
今は少しずつ元気を取り戻しているが、
足腰は弱ったままだ。
亡くなって1ヶ月経っていなかったが、
2月に
世の中的には不謹慎かもしれないが
旦那はこっそり旅行に行こう。と
ディズニーに連れて行ってくれた。
新幹線に乗るまでに、雪で行けないかも
と思っていたところを父の後輩が家族には
言うなと送ってくれた。
周りの温かさにひたすら泣いた。
そして日にちは経ち4月
私の働いていた保育園で、母は就職が決まった。
何の資格もない母を正社員として
給食の補助として雇って頂いたのだ。
今でもこの時のことは感謝している。
働く場所が出来、
祖母と反対に母は若返った。
そして、5月亡くなって4ヶ月が経った頃
『嘉穂劇場』という国の登録有形文化財にも
登録されている場所で父の偲ぶ会が開かれた。
父は人と人を繋げる事が好きだったので
『大縁会』と名付けたのだ。
これまた沢山の人たちが関わってくれて、
父のパネルまで登場したのだ。
鏡割りや、父へのムービー、食事会
そして、応援団だった父の応援📣の声
バイオリン演奏、ピアノ演奏
地元の方々が全力で携わってくれた。
この日にみんなに先ほどの冊子は手渡された。
私はこの日の感謝を一生忘れない。
今日の上の写真はその日の家族写真だ。
周りの温かさ、人との繋がりの大切さを
父からは教わった。