障害を受け入れる?
わたしの息子は
2010年7月2日、563gという小ささで
この世に誕生しました。
現在は死にかけたのが嘘のように
体は健康そのもので元気いっぱいですが
”知的な遅れ”があり、
特別支援学校に通っています。
息子は、半年間の入院を経て
それからずっと療育に通っていたのですが
療育で出会った素敵な先生とのお話。
いい話だから読んでみて(自分で言う)
保育園の年長になる頃
療育の先生から
「小学校に入ったら、
学校が終わった後に預かってもらえる
放課後デイサービスというのがあるから
それを利用するために障害者手帳を
取った方がいいですよ」
と教えてもらい、
療育手帳を取るための
手続きをしました。
手帳の申請を療育の先生に
勧められた時、わたしが
「障害者手帳、出るんですかね・・・?
(そこまで重い障害なの?)」
と呟いたら、療育の先生が
「あ、絶対出ると思いますよ」
と言った時、
鈍器で頭を殴られたような
気持ちになった。
(先生に悪意がないことはわかってます)
↓前びらきのシャツに苦戦
手帳が出たときは
障害者なんだ、という事実に
ホッとする気持ち
(障害者なんだから
できないことがあっても仕方ない)
と
不便と共に生きていかなければ
ならないんだ、という
荒波の海への航海の幕開け
というような気持ちが半々でした。
今でもそこは全然変わってなくて
障害者だから
できないことはできなくて仕方ない。
でも、わたしは
障害者としての
幸せな生き方がわからない。
この子は、
不便という道の中で
幸せに生きていけるんだろうか?
そんな気持ちが湧き出る日は
少なくない。
そして↑こういう思考にたどり着くと
いつも決まって出てくるのが
後悔だ。
妊娠中、わたしがもっと
体を労っていれば。
仕事なんてさっさと辞めて
健やかに過ごしていれば。
息子はこんな目に合わずにすんだのに。
わたしのせいだ。
わたしがもっと気をつけていれば
普通に学校に行って
普通に友達ができて
普通に勉強できたのに。
普通に、普通に、普通に。
あなたのせいじゃないよ、
とみんなわたしを慰めてくれるし
わたしだけのせいではないんだと
頭ではわかっているけれど
この後悔が0になることは
絶対にないんだろうな、と思う。
だから
「障害も個性ですよ」
とか、
障害とは無縁の生活をしてきた人に言われると
顔面グーパンチしそうになる(凶暴ww)
障害を受け入れるって
そんなに簡単なことじゃない。
少なくともわたしにとっては。
でも、
受け入れられないわたしのままで
それでもなんとか
息子と生きていけているのは
家族や、行政のサポートのおかげで
ただただわたしが
運が良かっただけなんだろう、と思う。
だから障害を受け入れようとか
わたしにとってそんな難しいことは
ちょっと横に置いておいて
わたしにできることは
そっと道端のゴミを拾うとか
公共のトイレをちょっと掃除するとか
そんな小さなことで
これからもちょっとだけ運を
溜めておくことくらい。
そんなもんで、
ちょうどいいのだ。きっと。
Stay strong(がんばろうね)