「成長しないと」といわれるけど、ずばり「成長」って何なの?
「君は成長したよ」
「もっと成長しなきゃ。期待してるんだよ。」
「あの会社の環境は、きっと君の成長が期待できるよ!」
ときくと、なんか「成長」って崇高の事のように思えますが・・
というけど、ずばり「成長」って何ですか?
「成長って言葉に多少振り回されてませんか?」
意外と「成長とは?」と聞いてみると、
意外と、多くの方がちょっと黙ってしまい・・
「え・・ いや、人間として一回り大きくなるとか・・」
「え、あ、年取って、落ち着くことじゃない?」
「技術力、スキルの事でしょ、あ、それは、単なる熟練?」
全く一人一人定義が違います。言えないことも多いです。
定義がバラバラな中、なんとなーく、
「成長した!」と上位者にいわれると精神論的にうれしくなって、納得してしまう現状はないでしょうか。
そもそも、成長って必要なんでしたっけ?
成長ってあなたに必要と聞くと、
多くの方が
「必要です!」
というけど、
「なぜ?」と聞くと、
結構、多くの人が黙ってしまう。
そういえば、なんだろ?
実は、本心、「もてたい」「認められたい」とか・・ちょっと恥ずかしくて言えないし。なんて、こともないでしょうか。
自分にとっての、自分らしい前向きな言語化ができていれば素晴らしいのですが、あいまいなままになってませんか?
極論、成長しなくてもいいってこともないですか?
何となく、真面目な日本人は、周囲に期待されると、成長しないと!と変なプレッシャーを負いますし、「成長できる環境」と言われると、なんかそこにいかないといけない錯覚に陥ります。
本当にそうでしょうか?
日本人は、無宗教だからこその特徴でもあるかもしれません。成長=周りに期待してもらえる、というよりどころが欲しいのかもしれません。
今の自分でもいい。
そう承認できたなら、それでもいいかもしれませんね。それが、「成長」と言われればそうかもしれませんが。
成長を前向きな理由で言語化するって大事です
もろろん、「成長」は素晴らしいことですが、周囲の雰囲気にただのまれたり、何となくの周囲からの精神論・プレッシャーで「成長」を強要されていたら、大変息苦しくもないでしょうか。
自分にとっての「成長」を言語化してみましょう。
考えてみても、今のままでいいと前向きに思うなら、そのままの自分でいいかもですね。