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🍆Nas(ナズ)をよりよく知るためのAtoZ

はじめに

本記事では、Nas(ナズ)のMCネームで知られるアメリカ人ラッパーに関する豆知識をAからZまで頭文字別に1項目ずつ取り上げ、概説した。

Nasの本名はNasir Jonesといい、ジャズミュージシャンのOlu Daraの息子として1973年9月14日ニューヨーク州クイーンズに生まれ、育った。1994年に発表されたデビューアルバムの『Illmatic』(Columbia)は今でもヒップホップ史上最高傑作として挙げられることが多い名盤である。ヒップホップの発祥の地でありながら、セールス面ではN.W.AやSnoop DoggといったGファンク勢の後塵を拝していた当時のニューヨークでは、西海岸のライバルたちに向けて、高い音楽性とメッセージ性を兼ね備えた特大の一撃で報いようという機運が高まっていた。そこで集められたのがDJ Premier、Q-Tip、Large Professor、Pete Rockといった精鋭のトラックメイカーだ。そしてもちろん、トラックを乗りこなす最高のMCも必要だった。

当時無名の新人だったNasは、東海岸ヒップホップの理知的で技巧的な伝統を引き継ぎつつ、それをさらに数段階進化させた精密なライミングスキームと文学的なレトリックに満ちたラップを披露し、聴く者を圧倒した。Nasは、フッドの揉め事に巻き込まれて友人を銃撃で失った自らをベトナム戦争の帰還兵に喩え、いわば毎日が戦場で、「眠ることは死ぬことに近しい(Sleep is a cousin of death)」という、クイーンズブリッジ団地の過酷な現実を活写した。そんな『Illmatic』に収録されたラップの大半がNasが10代の時に録音されたという事実は、今でも私たちを驚かせる。

ことヒップホップにおいて重んじられる「リアルであること」の価値をとことん貫いた『Illmatic』は、ストリートからは絶大な支持を受けつつも、発売直後のセールスで大きな成功を収めたわけではない。しかしながら同作の前後で、確実にヒップホップの歴史は不可逆な形で変わってしまったといえる。そしてNas個人のキャリアにとっても、あまりにも偉大な1枚目は呪いとなってしまった。Nasは『Illmatic』以後の10年余りにわたって、同作との距離をいかに取り、いかに新しいクリエイティビティを提示するかという課題に苦しみ続けた。この高い壁を乗り越え、彼が音楽家として真の意味でネクストレベルに進むには、今でも続く盟友Salaam Remiとのコラボレーションを待たなければならなかった。

Nasはキャリア30年目の2021年にして初のグラミー賞を受賞する。これは彼が長年にわたって勢いを落とさず、音楽家として第一線で活動していることの証左であるとともに、セールスや批評家の反応を必ずしも最優先せず、常にストリートのレペゼンたろうとしてきたことを意味している。この30年間、世紀を跨ぎながら主流派ヒップホップのビートはブーンバップからクランクへ、そしてトラップへと変遷を遂げた。またヒップホップカルチャーの震源地もニューヨークからロサンゼルスへ、そしてアトランタへと移り変わっていった。そのような大きな変化の中にあっても、Nasはマイク1本(One Mic!)、映像的な言語表現で世界を描写する—―しばしば”window-view style”と呼ばれる、聴く者をあたかもその場にいるかのような錯覚に陥らせる技法を持つ――孤高のリリシストとしての本懐を遂げてきた。だからこそ、ヘッズたちの支持は絶えなかったのだ。

このままだと彼は今後数十年にわたって現役生活を続けるだろう。五十路を控えてなお躍進を続けるラッパーに関する事実を、ここで一度振り返っておきたいと思う。


AtoZ

A: Amy Winehouse

 1983年生まれのイギリス人シンガー/ソングライター。唯一無二の音楽性と歌声で華やかなキャリアを送りながらも、生涯を通じてドラッグとアルコールの問題と戦い続けた。2011年7月にアルコールの過剰摂取により急逝し、27クラブの一員となる。
 Nasとは生前に親交があったことが知られ、一時は交際まで噂された。偶然だが、2人は、Amyが2011年にロンドンで行った生前最後のライブでも共演している。録音作品として共作した楽曲では”Like Smoke”(2008)が有名で、ライブでは繰り返し演奏していた。同曲は後年、Amyの死後に発売されたアルバム『Lioness: Hidden Treasures』(2011, Island)に収録された。また、同じ頃に発見されたAmyの制作中音源が自身に宛てられて書かれていたものだったことを知ったNasは、”Cherry Wine”として曲を完成させ、2012年のアルバム『Life Is Good』(Def Jam)に収録した。

B: Barbecue

 Nasは『Illmatic』(1994, Columbia)で堂々のデビューを飾ったと思われているが、彼の声が音源として初めて世に出たのはMain Sourceの1991年楽曲”Live At The Barbecue”においてだった。録音当時17歳だったとは思えない卓越したリリシズムと高度なライミングで、Nasは一躍ストリートのレペゼンに躍り出た。中でも、

Streets disciple, my raps are trifle. I shoot slugs from my brain like a rifle.
ストリートの使徒、ラップならば楽勝。ライフルのように頭から(言葉の)弾丸をばらまく

Live At The Barbecue

という有名な歌い出し箇所は、実は前年に発表されたRakimの楽曲”Let the Rhythm Hit Them”の押韻スキームを引用しており、明らかな影響関係を示している。下に該当箇所を引いておく。

tempo’s trifle, thug like a rifle
どんなテンポでも乗りこなせるライフルのようなサグ

Let Rhyme Hit Them

 Nasのデビューの立役者は、『Illmatic』の仕掛け人であるMC Serchという見方が一般的だが、実際には最初に彼の才能を見出してスタジオに連れて行ったのはMain SourceのLarge Professorだった。(L: Large Professorの項も参照されたい)

C: Carmen Bryan

 Nasが1994年に授かった愛娘Destinyの母親がCarmen Bryanだ。Def Jam Recordingsの社員だったCarmenは、Nasと大舌戦を繰り広げた(当時の)宿敵のJay-Zとも交際していたことがある。
 Carmenが後に明かしたところによれば、実はJay-Zはビーフが進行中の当時より、Nasの音楽に対して逆に大ファンなのではないかというレベルの執着を見せており、マンハッタンの自宅にはNasのレコードやミックステープの膨大なコレクションがあったらしい。
 彼女は2007年に自叙伝、というか暴露本『It’s No Secret: From Nas to Jay-Z, from Seduction to Scandal--a Hip-Hop Helen of Troy Tells All』を出版している。同書は、NasとJay-Zの間に挟まれた女性の目線から、ヒップホップ史上最大級の抗争の内情を語る貴重な史料である。

D: Damian Marley

 1978年ジャマイカの首都キングストン出身。”Jr. Gong”の異名をとるレゲエDJでありシンガー。ジャマイカのローカル音楽だったレゲエをグローバルコンテンツにまで押し上げた功労者、Bob Marleyが生前に授かった12人の子供たちのうち最後に生まれた。ダンスホール全盛のゼロ年代にあってルーツレゲエを色濃く押し出した音楽性と、Marley一族では群を抜いたハードなパトワ使いを組み合わせたスタイルで唯一無二の立場を築き上げる。
 Damianはグラミー賞受賞作となった名盤『Welcome To JAMROCK』(2005, Universal)に収録の”Road to Zion”でNasをフィーチャー。カリブ海に浮かぶ美しい観光地・保養地として先進国の富裕層にプレゼンテーションされる姿とは対照的な、タフで残酷なジャマイカの現実を淡々と描写した同アルバムの内容は、世界中から憧れの視線を集める大経済都市ニューヨークの陰であえぐ貧困街について語った『Illmatic』と重なる部分も多かったのだろう。意気投合した二人は、さらにフルアルバム『Distant Relatives』を共同制作し、2010年にデフジャムよりリリースした。本作はタイトル通り、アフリカにある自分たちのルーツや連帯、社会にはびこる不正について深掘ったコンシャスな内容となっている。また、2016年にはSalaam Remiプロデュースでシングル曲”Nah Mean”も共作した。
 DamianとNasは音楽以外に、社会奉仕にも一緒に取り組んでいる。特にAfrica Rise Foundationにおける活動は有名で、資金面での支援やイベントでの講演を行い、アフリカ諸国における公正性についての意識向上を推進している。

E: Ether

 Nasはシーンの最有力ラッパー、Jay-Zと90年代後半から2000年代前半にかけてビーフ関係にあった。きっかけは、Jay-Zが1996年に行った”Bring It On”のレコーディングセッションにNasが不参加だったことを咎められたことだ。特に、Jay-ZがNasのキャリアを’fake’(偽物)で‘lame‘(惨め)だと罵った楽曲”Takeover”(『The Blue Print』(2001, DefJam)収録)をリリースした後、舌戦は一気に本格化した。
 Nasは”Takeover”に対するアンサーとして、”Ether”を投下。自身のラップを、クラック(コカイン)の精製過程で混合することで、作用の持続時間を長くする効果を持つエーテルになぞらえた同曲の修辞はただの口汚い罵りあいを優に超えており、ヘッズの間ではビーフから生まれた曲としては史上最高とも評される。事実、”Ether”が収録された『Stillmatic』(2001, Columbia)はビルボードの総合チャートで最高位5位まで上り詰めており、セールス的には鳴かず飛ばずだった前作『I Am…』(1999, Columbia)から大きく躍進した。『Illmatic』から続いた顔面ジャケットシリーズも終焉したことにより、Nasがアーティストとして次のステージに進んだことを証明した作品となった。その意味で、Jay-Zとのビーフもポジティブに昇華されたのかもしれない。
 さて、Jay-Zはデビュー前にドラッグの売買に従事していたことで知られ、自らも”コカイン・ラッパー”を名乗っている。つまりここで参照されているエーテルとは、クラック=Jay-Zの魂をじわじわと時間をかけて焼き尽くすNasの宣戦布告にほかならない。

That ether, that shit that make your soul burn slow, burn slow
このエーテルがお前の魂をゆっくりと燃やしていく

Ether

 ちなみに、この引用箇所にある”Soul burn slow”は、恐らくNotorius B.I.Gの”Who Shot Ya?”からのライミングスキームの借用である(次の箇所下線部)。

Old school, new school need to learn though I burn, baby, burn like ‘Disco Inferno’
オールドスクールもニュースクールもお勉強が必要だ。俺ならば”Disco Inferno”みたく燃え上がるだけ

Who Shot Ya?

 また、アルバム収録前のオリジナルバージョンの歌詞には、

It should've been you in that plane crash
飛行機事故で死ぬべきだったのはお前だ。

Ether(未収録部分)

というラインが含まれていたという話もある。言うまでもなく、2001年、世界が悲しみに暮れたAaliyahの死への参照である。
 ”Ether”へのアンサーとしてJay-Zはさらに”Supa Ugly”を投下。Destiny Jonesの母親であるCarmen Bryanとの交際がJay-Z自身によってあかされたのは同曲においてである。このディスの応酬に目をつけたニューヨークのラジオ局Hot97は”Ether”と”Supa Ugly”のどちらが優れたディス曲かについてリスナー投票を実施。結果は58%の票を獲得したNasの勝利だった。
 Jay-Zの名誉のために追記すると、この舌戦のさなかでEminemは自身の楽曲”Till I Collapse”において両氏の名前を引き、どちらも最高のラッパーだと歌っている。

F: Fannie Ann Jones

 Nasの母親Fannie Ann Little Jonesはノースカロライナ州リッチモンド郡に1941年に生まれた。配偶者となるコルネティストのOlu Daraと出会う前は、地元で郵便局員として働いていた。AnnとOlu DaraはNasが12歳の時に離婚してしまうが、Nasはその後は両親どちらとも良好な関係にあったようだ。
 Annは乳がんによる3年間の闘病生活の末2002年4月に亡くなるが、最後の日々に付き添い、生活をサポートしたのはNasだった。彼女の逝去の知らせを受け、Nasは進行中だったライブ会場を急遽あとにした。

ギターを演奏するAnn Jones

 Annが亡くなったのと同じ年に発表された『God's Son』(2002, Columbia)収録の“Last Real N***a Alive”において、Nasは自身が母親の介護で忙殺されているさなかにJay-Zが奇襲(sneak attack)を仕掛けてきたとラップしている。これは具体的には、Jay-ZがNasの元恋人であるCarmenと関係を持ったことを指していると考えられる。また、同じアルバムに収録された”Dance”では母親を失ったことによるよりダイレクトな悲しみと追悼のメッセージを聴くことができる。

G: Grammy

 Nasはキャリア30年目を控えた2021年に初めてグラミー賞を受賞した。受賞対象となったのは、スタジオ録音モノとしてはじつに13作目となるアルバム『King’s Disease』(2020, Mass Appeal)で、受賞部門は最優秀ラップアルバムだった。受賞までにNasがグラミーにノミネートされた回数は14回にものぼる。

H: Harvard University

 2013年7月、ハーバード大学はNasの名を冠したNasir Jones Hip-Hop Fellowshipというプログラムを設立した。このプログラムではヒップホップや同ジャンルと繋がりがある芸術分野の研究者に対する資金面での支援が提供される。ハーバード大学には元よりHip-Hop Archive and Instituteというヒップホップの研究所があり、このプログラムの組織的な受け皿となっている。同研究所に対してNasが行っていた多額の寄付に報いる形でプログラムが立ち上がった。なお2017年には、ハーバード大学図書館に『Illmatic』が永久所蔵されることも決まった。

I: Ill Will

 1972年生まれ。Willie ”Ill Will” Grahamはクイーンズブリッジで生まれ育ったNasの隣人であり、幼馴染だった。Ill Willは若き日のNasに「上階から中華料理を落とすから窓から腕を出して皿を構えておけ」と指示を出し、実際にそのような特殊な形で料理を届け、中華の味を教えたのだという逸話もある。
 Ill Willは1992年5月23日、20代を待たずして銃撃事件に巻き込まれ亡くなる。NasにとってIll Willの死は、「クイーンズブリッジの現実を伝えねば」という使命感をドライブする出来事となった。2年後にリリースされる『Illmatic』をはじめ、彼に対するシャウトアウトはいたるところで反復される。
 だが究極のシャウトアウトはイル・ウィル・レコーズの設立だろう。Nasは1999年の3rdアルバム『Nastradamus』(Columbia)リリース後、当時のマネジャーだったSteve Stouteの力を借りつつ、親友の名を冠したレーベルをソニーの傘下に立ち上げた。

J: Jungle

 本名Jabari Jones。Nasの弟である。前述のイル・ウィル・レコーズより1998年にデビューしたヒップホップグループ、Braveheartsでラッパーとして活動した(グループは2008年に活動休止)。Nasと同じくクイーンズブリッジの危険な環境の中で育ったJungleは、弟でありながらも、音楽の才能に恵まれた兄を犯罪や暴力から守ることに神経を注いだ。少なくとも幼いうちは、ある意味自分のほうが兄のような役割を果たしていたのだ、という内容を2014年公開のドキュメンタリー映画『タイム・イズ・イルマティック』で語った。

←Nas Jungle→

K: Kelis

 本名Kelis Jones。1979年8月ニューヨーク出身のR&Bシンガー。エレクトロニカ寄りのプログレッシブなソウルを志向した音楽性で、1999年に『Kaleidoscope』でアルバムデビュー。最大のヒット曲は2003年にリリースされた”Milkshake”。同曲を含む3枚目のアルバム『Tasty』はグラミーの最優秀ダンスアルバム部門にノミネートされた。
 NasとKelisは2005年1月に結婚し、2009年に離婚した。離婚届けが提出された当時、彼女はNasとの子供(Knight)を妊娠中だった。後にKelisは、5年間余りの結婚生活の中でNasからは精神的・物理的な暴力が日常的に行使されており、彼女自身もNasを殴ったことがあると明かしている。Nasにとっても結婚生活はあまり好ましい物ではなかったようで、ドキュメンタリー映画『タイム・イズ・イルマティック』では、様々な親族や友人達が登場する中、Kelisのことは不自然なほど完全にスルーされている。もはや彼の人生において彼女は存在しなかったことになっているのだろうか。
 ちなみにKelisの父親はジャズミュージシャンで、Nasの父Olu Daraとも同じコンボに在籍していたことがある。

L: Large Professor

 本名William Paul Mitchell。1973年ニューヨーク州ハーレム出身のラッパーでありプロデューサー。Nasが客演アクトとしてレコードデビューを果たしたヒップホップグループMain Source の創設メンバーであり、MC Serchと並んでNasty Nasを業界に引き入れたメンターとして認知されている。
 Large ProfessorとNasのコンビは『Illmatic』でも続き、収録された10曲中3曲はLarge Professorのプロデュースによるものだ。ボースティングはヒップホップ文化の一部だが、Large Professorをしてさえ、Nasの才能の前では謙虚である。『Illmatic』誕生の背景を描いたドキュメンタリー『タイム・イズ・イルマティック』において彼は、「もし私が同じビートを他のラッパーに提供していても、これほどまでに称賛されることはなかっただろう。Nasのリリックやストーリー性に匹敵する物を作れる人はいなかっただろうし、彼は他のラッパーと一線を画すアーティストだ」との言葉を残している。
 さて、『Illmatic』収録のLarge Professorプロデュース曲の中でもひときわ出色なのが”It Ain't Hard to Tell”だ。Michael Jacksonの”Human Nature”を大胆に、しかし一聴してそれとはわからない形でサンプリングしたトラックはNasのハードなラップを見事に引き立て、強力な楽曲揃いのアルバムを締めくくるに相応しい強烈な印象を聴き手に残す。

M: Monster

 『モンスター その瞳の向こうに』(原題:Monster)は2018年制作のアメリカ映画。ストーリーはアフリカ系アメリカ人の高校生が身に覚えのない強盗殺人の罪で訴えられるというというもの。Nasが出演している何本かの長編映画のうちひとつであり、エグゼクティブプロデューサーとしてもクレジットされている。2018年1月のサンダンス映画祭で発表され、その後配給会社が決まらない状態が続いたが、2021年になってからネットフリックスが配給権を買い取り全世界で公開した。
 ダークでシリアスな法廷ドラマながら同作にはASAP RockyやJennifer Hudsonなど、Nas以外にもミュージシャンが複数出演している。

N: Nicki Minaj

 本名Onika Tanya Maraj。1982年ニューヨーク出身のラッパー、シンガー、ソングライター、女優。デビューアルバム『Pink Friday』(2010, Young Money; Cash Money; Universal Motown)からカットされたシングル”Superbass”がビルボードチャートで全米5位にランクインすると、次のアルバム『Pink Friday: Romans Reloaded』(2012, Young Money; Cash Money; Universal Motown)からはパーティアンセム”Starships”が全世界3位にランクイン。一気にスターダムを駆け上がった。
 Nicki MinajとNasは2017年5月から1年弱交際していたことが本人らにより明らかにされている。最初に巷で噂が立ったのはNickiの2012年曲”Right By My Side”のMVにNasが出演し、親密な関係の演技を見せつけたところだった。その後時を経て2017年1月にNickiの当時の恋人Meek Millとの破局が報じられると、Nasと一緒にいる姿がソーシャルメディアに投稿されるようになる。さらにNickiは2017年7月に妊娠していることをほのめかす投稿を行うが、それがNasの子供であったかはまったくもって不明。同年12月のNickiの35歳の誕生日に、Nasは「Nickiはニューヨークの‘クイーン‘でありヒップホップの‘クイーン‘でもある」と称える投稿を行った。

←Nas Nicki Minaj→

O: Olu Dara

 Nasの父親。Charles JonesⅢ世として1941年1月ミシシッピ州ナッチェスを生誕地とするジャズミュージシャンで、メイン楽器のコルネットのほか、歌ったりギターを奏することもある。1959年から1964年まで軍属のミュージシャンとして働いた後、ニューヨークに拠点を移す。その際に変更し今でも使い続けている芸名はヨルバ語で神を称える文句でもある。
 息子のNasとはライブを含めると何度も共演しているが、特に有名なのは『Street’s Disciple』(2004, Columbia)からシングルカットされた”Bridging The Gap”だろう。当時Salaam Remiとタッグを組んで編み出した大ネタ使い路線そのままに、Muddy Watersの有名曲”Mannish Boy”をサンプリングしたビート上でOlu Daraがフックを歌うという構成になっている。同曲はMuddy~Olu Dara~Nasというパフォーマンスの編成をブルース~ジャズ~ラップという黒人音楽の流れになぞらえ、それらジャンル間の境界を横断する歴史へのコミットを歌った啓蒙的な内容である。なお、曲の終わりにはリリース当時亡くなったばかりだったソウルの巨人Ray Charlesへの追悼シャウトアウトもあり。
 Olu Dara自身はこれまでにAtlantic Recordsからソロアルバムを2枚リリースしている。スイング以前のジャズにデルタ・ブルースやカリプソ、西アフリカのハイライフ等の要素を練りこんだような音楽性で、南部由来のアメリカンルーツミュージックの影響を色濃く打ち出している。実父Olu Daraの存在は、ヒップホップ界のトップランカーであるNasが北米産の音楽の伝統の延長上に位置する存在であるという印象をことさら強めている。

P: Pete Rock

 本名Peter O. Philips。1970年6月ブロンクス出身のビートメーカー、DJにしてラッパーでもある。DJ Premier、Q-Tip、RZA、J Dillaらとともに、1990年代の東海岸スタイルを作り上げたプロデューサーの1人に数えられ、ジャズ系のネタを使いこなす知識や高度なハーモニー感覚とともにThe Bomb Squad系列のノイジーなテクスチャーを操る技術も持ち合わせる。
 Pete Rockは『Illmatic』の中では、シングルカットもされた ”The World Is Yours”のプロデュースを担当した。同曲はNew York Times誌(厳密には傘下のAbout.com=現Dotdash Meredith)が選ぶヒップホップ史上最も重要な楽曲ランキングで第7位に選定された名曲中の名曲である。
 しかし楽曲リリースから28年が経った2022年になってから、Pete Rockが未払いのロイヤルティに関してNasを訴訟するという旨の脅迫を行い、二人の間には緊張が走っている。Pete Rockの弁護士Lita Rosario-RichardsonがRolling Stone誌に語ったところによれば、”The World~”に関してNasは継続して印税を受け取っているにも関わらず、Pete Rockにはビートのマスタ音源使用料を支払っていないという。明細は公開されていないが、未払い債務の総額は100万ドルにのぼる可能性があるとのことだ。
 ここでもNasはしっかりとラップで応答。『King’s DiseaseⅢ』(2022, Def Jam)に収録されたHit-Boyプロデュースの楽曲”30”でNasは次のように呼びかけを行う。

I wonder why Pete Rock would act like that
なぜPeteがあんなことをするのかわからない

That type of behavior make me give rap right back
だからラップでアンサーしたくなるんだ

And now I can't tell if all the good that I did's bein' hid with they agenda again, n*a
理解できないんだ。この件のせいで過去の良かったことも全部忘れてしまうのか?

I know that y'all prayin' I go back to nothin'
俺が何もかも失うことを願ってるやつらかいるのはわかってる

We in the future, let's get past the frontin'. Let's get money.
これからのことを考えよう。いさかいは過去のものにして、一緒に儲けよう

30

 音楽面では『Illmatic』の呪縛をとっくに乗り越えたNasだが、やはり過去の達成が大きいと、その長い影は追ってくるものだ。

Q: Queensbridge

 クイーンズブリッジ団地Queensbridge Houses、本文他の箇所と同様、以降はクイーンズブリッジと記す)はニューヨーク州クイーンズのロングアイランド地区に位置し、ニューヨーク市住宅公社が運営する住宅群である。29棟3142戸から構成され、公営団地としては米国最大の規模を持つ。入居開始は1939年からと長い歴史があり、それだけに建物は老朽化が進んでいる。
住宅公社は1950年代に大きくポリシーを変更し、当時クイーンズブリッジに住んでいたうち、年収が3000ドル以上の世帯をミドルクラス向けの別の公営団地に転居させた。これにより、クイーンズブリッジの住民コミュニティは相対的に低所得者が多いアフリカ系とラテン系に人種バランスが大きく偏った。もちろん、当初は低所得者が確実に入居できる安全な住居を確保することを狙いとした施策だったわけだが、容易に推察できる通り結果としては間接的な隔離政策として機能した。規模もあって住民の管理を行き届かせるのは難しかったようで、公団のお題目に反し、クイーンズブリッジはニューヨークの中でも際立って犯罪率の高い危険な一帯へと変化していくことになる。
 そのいっぽうクイーンズブリッジはNas含め、数多くのヒップホップレジェンドを輩出していることで有名である。Marley Marl Williamsの”The Bridge”は、クイーンズブリッジをヒップホップ史においてカリフォルニア州コンプトンと並んでアイコニックな場所にした1曲だ。他にもRoxanne Shante、MC Shan、Craig G、Mobb Deep、Blaq Poet、Cormega、Tragedy Khadafi、Nature、Caponeなどなど、クイーンズブリッジに出自を持ってニューヨークヒップホップの全盛期を作り上げたアーティストは枚挙に暇が無い。NasやMobb Deepに特に顕著だが、こうしたアーティストたちは多かれ少なかれクイーンズブリッジが置かれた上述の人種隔離に対して声を上げていた。彼らが描写した内容が世界に問われることにより、ある時期からこの団地には貧困、暴力、薬物に満ちたゲットーとしてのイメージがついて回るようになる。特にクラックの蔓延はクイーンズブリッジ住民の間に多くの死者を出した。驚くべきことに、過剰摂取による死亡以上に多かったのが取引絡みの殺人事件だった。
 以上のような背景を踏まえると、他項で記載しているNasとJay-Zの確執の理由がより深く納得できるのではないだろうか。つまりクイーンズとブルックリンという出身地の違いにより生じるライバル関係だけでなく、クラックの流通にかかわっていたJay-Zは、Nasが育った場所の環境を悪化させるのに貢献していたと言えるのだ。
 なお、2000年代にクイーンズブリッジでは複数回にわたって警察による大規模捜索と検挙が行われ、最終的に合計で100名近い逮捕者を出した。以降犯罪率は下降してきているという。

クイーンズボロ橋からクイーンズブリッジ団地を臨む

R: Rakim

 Rakimは1968年1月ニューヨーク州サフォーク群出身のラッパー。本名はWilliam Michael Griffin Jr.だが、RakimというMCネームのほか、The God MCやKid Wizardといった多くの敬称を持つヒップホップ界のレジェンドである。
 1980年代よりキャリアを開始し、中間韻の導入や複数の母音を横断した長尺の押韻など新しい要素の導入を通じてラップの技術を大きく進化させた功労者とされている。しかしそれらは本質的には、クラブやブロックパーティにおける即興性とリズム/フローを重視していた従前のラップのあり方に対し、複雑な押韻や修辞をじっくりと事前に練りこんだ歌詞をスタジオで吹き込むという構築的な方法論を提示したということに他ならない。一義的にはストリートアートだったラップに内省を持ち込み、ハイアートへと一歩近づけたのが彼の最大の偉業だったのだ。
 こうしたRakimのテクニックや文学的な作詞法はNasのラップスタイルへの最大の影響源と考えられている。げんにNasは、スタジオではフリースタイルをしないことを各所で公言しており、ライムブック(=ラップのネタ帳)の重要性を強調している。また、他項でも述べた通りデビュー曲”Live at the Barbecue”からいきなりRakimの押韻スキームをサンプリングしていることからも、リスペクトぶりがうかがえる(B: Barbecueの項を参照)。
 NasはJay-Zからのディスソング”Takeover”が出た際、Rakimにどうすべきか相談したという。「戦いたければ戦うしかない。誰かの助言に耳を貸すんじゃなく、自分の心に従え」というのがRakimからのアドバイスだった。その結果名曲”Ether”が生まれたのだから、グルの存在というのはあらためて重要だ。

S: Salaam Remi

 本名Salaam Remi Gibbs。1972年クイーンズ出身でNasとは同郷のカリブ系アメリカ人ヒップホッププロデューサー。1990年代よりWyclef JeanやFugeesといった大物との仕事で活躍するも、Nasへの楽曲提供は『Stillmatic』(2001, Columbia)収録の”What Goes Around”が初めてであった(※厳密には、1996年にKool G Rap ”Fast Life (feat. Nas)”という曲が出ているのだが、リミックス仕事のため、”What~”を最初とカウントした)。『Stillmatic』では1曲だけの共作だったが、この出会いがNasのキャリアを大きく前進させることになる。
 Salaamは続くNasの第6作『God’s Son』(2002、Columbia)においては5曲をプロデュース。”Made You Look”、”I Can”など、Nasの生涯ベストトラックに挙げられるようなクラシックスを生み出す。さらに、続いて発表された2枚組アルバム『Street’s Disciple』(2004、Columbia)では前作を超える8曲を手掛け、すっかりNasのファーストコールプロデューサーになった。レーベル移籍後初作となった『Hip Hop Is Dead』(2006, Def Jam)以降も、2000年代を通じて緊密なコラボレーションは続いた。
 Salaam Remiのビートメイキングの特徴は言ってしまえば大ネタ使いにある。例えば前掲の”Made You Look”では、Incredible Bongo Bandの”Apache”が、”I Can”では「エリーゼのために」のピアノリフがそれぞれ大胆に使われている。また『Street’s Disciple』から先行カットされた”Thief’s Theme”ではIncredible Bongo Bandにより演奏されたバージョンのIron Butterfly ”In-A-Gadda-Da-Vida”の強烈なリフが改変なくサンプリングされただけでなく、Nasは同じサンプルソースを後年の”Hip Hop Is Dead”でも再利用した。
 このような、誰もが一聴してわかる形での引用ないしパロディは、言うまでもなくビートの耳あたりのよさを高め、幅広いオーディエンスにアピールする効果を持つ。それだけでなく、Pete RockやPrimoといった、元ネタをわからないほど細分化してサンプリングするビートメイカーたちと一緒に初期キャリアを歩んだNasの個人史においては、創作の方向性を大きく切り替える意味合いも持っていた。高い完成度を持った『Illmatic』の呪縛から逃げきれず、内容的にもセールス的にも鳴かず飛ばずの作品を作り続けた90年代を完全に乗り越え、NasのラップはSalaamのビートの元で新しい自由を得たのだ。これは2000年代の諸作を聴けば誰の耳にも明らかなはずだ。

T: 2Pac

 本名Tupac Amaru Shakur。ウェッサイの雄というイメージが強いが、出身地自体はハーレムである。史上最悪のビーフであるいわゆる「ヒップホップ東西抗争」の当事者であり、和解を望みながらも1996年に凶弾に倒れた。アートスクール時代はシェイクスピアの演劇を学んでいたという文学的なバックグラウンドを活かした修辞の技術と機知に富んだラップはNasの作詞スタイルにも影響を与えた。
 ヒップホップ東西抗争において、西海岸をレップする2Pacの相手をしていた東側のMCがビギーことNotorius B.I.Gだったのはご存じのとおり。ただ、ビーフが過熱する中でNasもとばっちりを受けた。その舞台となったのが、映画『レオン』の挿入歌としても使われたSting ”Shape of My Heart”のギターリフをフィーチャーしたNasの楽曲 ”The Message”(『It Was Written』(1996, Columbia)収録)である。同曲は次のような一節で幕を開ける。

*Fake thug, no love, you get the slug CB4 Gusto
偽物のサグ、慈悲も無く、*CB4のGusto(※)ばりに鉛弾を喰らわす

Your luck low, I didn’t know ‘til I was drunk though.
お前の運は尽きた。酔っぱらうまで気づかなかったがな!

The Message

(※)Chris Rock主演の映画のキャラクター。身分を偽ってラッパーとして活動したことで復讐を受ける。

‘thug’や’love’など、使われている単語の選択から、2Pacはこの箇所をNasによる自身への間接的なディスと受け取った。実際には違うのだが。さらに同じ曲の次の箇所は2Pacが94年にタイムズスクエアのクアッド・スタジオを訪問した際に受けた敵対勢力からの襲撃の場面の描写と読める。

Heard shots and dropped, son, caught a hot one
銃声が聞こえて地面に伏せた。一発喰らってしまった

Somebody take this biscuit ‘fore the cops come
おまわりがくる前に誰かこの銃を持って行ってくれ

Then they came askin’ me my name, what the f**k?
おまわりたちが来て俺の名前を尋ねてきた。なんてことだ?

I got stitched up, it went through
弾は貫通していたから銃創を縫合した(※)

Left the hospital that same night, what
その夜のうちに退院したよ。なんてことだ…

The Message

(※)実際、クアッド・スタジオでの襲撃の後に病院に搬送された2Pacは簡単な手当だけを受けてその日のうちに帰宅している。

 これに反応した2PacはMAKAVELI名義で発表した自身の曲”Against All Odds”(『The Don Killuminati: The 7 Day Theory』(1996, Death Row) 収録)ですかさず反撃を加える。

This little na named Nas think he live like me
Nasとかいうガキが俺の真似をしてる

Talking 'bout he left the hospital, took five like me
俺みたいに病院でひと休みしたあとすぐ帰ったんだとよ

You live in fantasies, na, I reject your deposit
お前は妄想してるだけなんだよ。お前からの入金は受け付けない

Against All Odds

 2Pacを心から尊敬しており、ディスをする意図など無かったNasはこの曲を聴いたとき思わず涙したという。むしろ”The Message”のメッセージはNotorius B.I.Gに向けられたもので、Nasは東西の勢力の境界を超えて2Pac側に立っていたのだ。
 2人は1996年のMTV Video Music Awardsの直前にセントラルパークで再会し、誤解を解いて和解した。2PacはNasに、「今起きている東西抗争はお前とは何の関係もない」という言葉をかけ、発売予定の『The Don Killuminati』からNasに対する口撃になっている箇所を取り除くと約束した。
ラスベガスで4発の銃弾を受け、2Pacが亡くなるのはそのわずか数日後のことだった。結局編集が加えられないままでアルバムは発売となった。

U: Unique Rides

 Nasは2017年にWill Castroがホストを務めるリアリティTV ”Unique Rides”に出演した。各回でセレブリティが思い入れのある車種の入手と「ユニークな」改造を依頼するという内容なのだが、第3シーズンの1話目に登場したNasは1988年式メルセデス・ベンツ190Eをお題として提示。番組では5000ドルで同型の中古車を入手し、8週間かけてスペシャルカスタムを施した。
 ベンツ190Eは「下積み時代にあこがれていた車」で、「成功の象徴」とのこと。ちなみに車絡みネタだと、Nasは1990年代のヒップホップカルチャーでアイコニックな高級車だったレクサスのLS400等を選ぶことを拒絶していた。理由は「Jay-Zより良い車に乗りたい」というものだった。

完成したNas仕様の190E。ナンバープレートにはIllmaticの文字が見える。

V: Video Music Awards

 Nasは2023年現在までで唯一の法的な配偶者であったKelisと2002年に出会っている。舞台となったのはMTV Video Music Awardsの後に、ニューヨークの有名なイタリア料理レストランCiprianiにて催されたプライベートアフターパーティであった。このパーティを主催していたのは、当時Arista RecordsからBad Boyレーベルを独立させたばかりのP. DiddyことSean Combsだった。強いて言うなれば、NasとKelisのキューピッドとなったのはディディーだったのだ。

W: Waffles

 Jay-ZやSnoop Doggに代表されるように、音楽業界における成功者たちはレストランやホテルの経営、音楽以外のエンタメ、スポーツチーム運営など、様々な事業に手を広げていくケースが多い。しかしながらNasは強いて言えば他項で紹介した慈善活動をしているくらいで、まだまだ音楽に集中しているといったようすだ。そんな彼が行っている数少ない音楽外ビジネスのひとつが、ワッフルとフライドチキンを供するレストランチェーン、Sweet Chickへの出資だ。
 Sweet Chickは2023年時点で開業の地ニューヨークの5店舗に加えロサンゼルスにも店を構えており、Nasは資金面だけでなく広報でも業容の拡大を支えている。激甘ワッフルと油ギトギトフライドチキンの組み合わせは言うまでもなく父Olu Daraの故郷、南部アメリカのソウルフードだが、同時にそれらはニューヨークのハーレムのジャズクラブで提供される定番メニューでもある。つまりNasにとってこれらの食べ物は自身と黒人音楽のルーツであるサウスと、飛躍の地であるニューヨークを結ぶ記号なのだ。

X: Lil Nas X

 本名Montero Lamar Hill。1999年ジョージア州アトランタ出身のラッパー。白人音楽であるカントリーのチャートでヒットした”Old Town Road”は音楽ファンの間では2019年の一大ニュースだった。
 容易に推察できる通り、Lil Nas Xの芸名はNasから取られている。彼はNasから大きな影響を受けていることを各所で語っており、特にストーリーテリングの能力とリリシズムを称賛している。また、前掲の”Old Town Road”のトラックでサンプリングされているのも、他ならぬNasの”34 Ghosts Ⅳ”である。

Y: Yara Shahidi

 Yara Sayeh Shahidiは2000年2月ミネソタ州ミネアポリス出身の俳優。子役としてキャリアを開始し、ABCのシットコムシリーズ『Black-ish』への出演で人気者になる。Nasとは従兄妹同士である。
 2022年にフェイスブック上で配信されていたYaraがホストを務めるトークショー番組『Yara Shahidi's Day Off』のシーズンフィナーレにはNasが娘Destiny Jonesとともに登場。批評文化やキャリアに対するモチベーションについて語った。

従兄妹

Z: Jay-Z

 楽曲だけでなく、ラジオでのフリースタイルや雑誌のインタビューなど、いくつもの媒体を横断したビーフでシーンを盛り上げていく手法はもはや米国産ヒップホップでは常套手段だ。時にそれがエスカレートし、Notorius B.I.Gと2Pacのような悲劇を招いてしまうこともある。NasとJay-Zの確執も一定のシリアスさを持って受け止められたが、直接の暴力の行使には至らず、音楽的な技巧によってのみ対決が行われた幸運な例と言えるだろう。
 Jay-Zは本名Shawn Corey Carter。1969年12月ニューヨーク州ブルックリン生まれのラッパーでありプロデューサー。そして非常に成功した実業家でもある。
 2人のビーフは2001年の“Ether”や”Supa Ugly”による口撃の交換、Hot97におけるリスナー投票やフリースタイルににおいて最大の盛り上がりを見せる。その後も彼らは色々な曲にサブリミナル的にディスを散りばめて小競り合いを続けていたが、2005年にP. Diddy、Kanye West、Beanie Sigelらも出演したコンサートで2人並んで板に立ち、正式に和解した。さらに翌年、NasはJay-Zが代表を務めるDef Jam Recordingsに移籍し、ファンを驚かせた。

おわりに

このAtoZシリーズの他の記事でも明らかになりつつある傾向なのだが、25項目を選んだ結果としてNasに関しては特に人名が多くなった。Nasは偉大な天才だが、彼一人の力でヒップホップの歴史が作られたわけではない。偉業の背景には、彼の周りにいた多くの個人とのつながりがあった。それらを遠くからまとめて見た時に、「シーン」や「時代」のようなものが浮かび上がるのかもしれない。いっぽうで、Nasと各個人のひとつひとつの物語を詳しく見てみると、それらは否応なく固有名の世界である。「AからZまで」を基準に並べているため、Nasの人物や音楽の説明としての直線的で整然とした語りにはなっていないが、それぞれの項目の物語を楽しみつつ、全体を読み終えた時に聞こえてくるレゾナンスも味わっていただければ幸いだ。

また、やはりというか、ラッパーを取り扱ううえでは、何か所か具体的な歌詞を紹介するのが適当だと感じられる個所が出てきた。該当の箇所には少しでも内容が解しやすいように簡単な私訳を付している。ただし、国内盤のCDに添付された正式な対訳を参照したわけではないので、ニュアンスや解釈内容に誤りがあるかもしれない。この点についてはご容赦いただきたい。

最後に、このA to Zシリーズでこれまで書いたヒップホップの偉人たちに関する記事へのリンクを置いておく。


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