J Dilla聖地巡礼地図(1):デトロイト編
イントロ
デトロイトは2020年時点で人口約439万人という米国中西部の大都市で、Jディラ出生の地である。ダン・チャナスによる評伝『Dilla Time』は、はじまりの場所としてのデトロイトをたいへん重視しており、同書はデトロイトの発展史に関する詳細な記述からはじまる(第2章)。
エミネムを筆頭に、D12、ビッグ・ショーン、ダニー・ブラウン、ティー・グリズリーら、いまや多くの著名ヒップホップアクトを輩出する街となったデトロイトだが、Jディラがキャリアを開始した1990年代初頭において、中西部はまだまだヒップホップ不毛の地だった。
いっぽうで、デトロイトにはモータウン・レコーズの本社が1958年の創業以来長らく所在していたほか、1980年代からはジェフ・ミルズやマイク・バンクスらテクノの要人を生み出した街としても知られ、黒人音楽史全体からするときわめて重要な場所ではある。この豊かな文化を生み出した土壌は、同都市の基幹産業である自動車工場での職を目当てに南部から大量移住したアフリカ系の人々により作られた。彼ら彼女らは当初、移住者向けにつくられた住宅街区に押し込められ、セグレゲーションのもとで生活していた。
Jディラの母親で”マ・デュークス”の通り名で知られるモーリーン・ヤンシーは当時スラム認定されていたBlack Bottomという街区の出身だし、父親のビバリーは、フォードの組み立て工場に勤務する工員だった。このようにJディラの家族や生まれ育った環境は、デトロイトの産業史・社会史と密接な関係がある。
Jディラが生まれた時、両親はデトロイトのダウンタウンにあるMadison-Lenox Hotel(❽)の一室で暮らしていた。そしてディラが散歩できるほどの年齢になると、ビバリーは息子を連れて同ホテルからほど近い公園、Harmonie Park(❼)に出かけ、オールドソウルのレコードを流しながらピクニックをするようになった。
スラム・ビレッジの曲名にもなっているConant Gardensは、米国の各都市で固定化していた有色人種のセグレゲーションに対する連邦裁判所における違憲判決を受けて1950年頃から新しく開発された郊外の住宅地の名前である。Jディラや兄弟たちが生まれた後に、よりよい子育ての環境を求めて一家はConant Gardensに引っ越した。ここにはJディラの家族が通っていた黒人教会Vernon Chapel(❶)が所在しており、彼が最初に受けた音楽的インスピレーションをたどるうえでは訪れるべき場所といえる。
また、かつてのデトロイトではヒップホップが盛んではなかったと書いたが、そんな中で細々と展開されていたイベントのかつての会場を巡るのも楽しいだろう。特にWoodward通り沿いの、モータウンやゼネラル・モーターズが昔本社を構えていた界隈に位置するStanley Hong’s Mannia Cafe(❸)は、デトロイトで最初期のヒップホップメインのイベント”The Rhythm Kitchen”の会場となったという意味で重要だ。また、94年ころから毎週金曜に開催されていたという”Three Floors of Fun”の会場となったSaint Andrew’s Hall(❹)は、同クラブでレジデントDJをしていたマイケル・ブキャナンa.k.a.DJハウスシューズとJディラが出会った場所である。ハウスシューズはディラがデトロイトを離れた後も何かと世話を焼くことになる生涯の盟友のひとりとなった。
Jディラのナイトライフの足跡を辿るなら、Tigers(❺)やChocolate City(❻)といった店、あるいはその周辺に行ってみるのもいい。業態としてはストリップクラブに該当するが、ここでJディラはお気に入りのダンサーと出会い、出会いのうちいくつかは真剣な交際に発展した。ただしこれらの店は既にオーナーが変わったり店名も変わったりしているため、実際に訪れてもあくまで雰囲気を味わうに留まるかもしれない。
夜の街よりも、よりベタな観光スポットとして訪れやすいのはデトロイト美術館/Detroit Institute of Arts(❿)だろう。ここにはJディラの没後最初期のトリビュートイベントの会場となった中庭があり、デトロイトの街とディラの音楽的遺産を結びつける象徴的な場所として、ファンならば興味深い場所となると思われる。
各所の案内
❶Vernon Chapel Church
所在地:18500 Norwood St, Detroit, MI
Jディラの幼少期に、ヤンシー一家が通っていた教会。ディラやスラム・ビレッジのメンバーが幼少期を過ごしたミドルクラスの黒人が多く住む住宅街、Conant Gardensのほぼ中央に位置している。教義の系列としてはアフリカンメソジスト派(AME)で、いわゆるブラックゴスペルの教会である。米国に住むアフリカ系のコミュニティにおいて、キリスト教会が音楽教育に果たす役割はきわめて大きい。幼き日のディラも例に漏れず、クワイアで歌っていた父母に連れられ教会に出入りする中で、歌やピアノを含め様々な楽器の演奏スキルを習得していった。なかでもドラムの腕は際立っていたとのこと(第3章)で、その打楽器センスは後にドラムセットをMPC3000に置き換え、存分以上に発揮されることになる。
『Dilla Time』ではJディラ特有のズレたビートの感性はVernon Chapelで涵養されたものだという説が提示される(第3章)。クワイアが合唱する際に、同じメロディを複数の人が歌うことにより生じるわずかな「ズレ」をクールだと感じたのが、ディラビートに繫がる原体験だった、とのことだ。Vernon Chapelの日曜礼拝に行けばこの感覚が追体験できるかもしれない。
❷The Hip Hop Shop
所在地:15736 W Seven Mile Rd, Detroit, MI
Conant Gardensから7Mile Roadを車で20分ほど西に向かった、Forrer Streetと交わるコーナーに所在する衣料品店。「デニム界のスティーブ・ジョブズ」の異名をとるファッションデザイナーであるモーリス・マローンが1993年に創業し、デトロイトヒップホップ草創期における文化の震源地の役割を果たした。衣類の販売だけでなくさまざまなイベントの会場としての役割を持ち、特にエミネムが頭角をあらわしたフリースタイルラップバトルの会場だったことが有名である。
JディラはD12のメンバー、プルーフからの紹介でHip Hop Shopに出入りするようになった。既述のフリースタイルラップ対決だけでなく、2人のビートメーカーがそれぞれその場で任意に選ばれた5枚のレコードから即席で作ったビートを競い合うヒップホップ版料理の鉄人/Hip Hop Iron Chefという競技で才覚を見せつけていたらしい(第5章)。どんなに「使えない」音源でもビート素材として採用する創意や、制限時間内に素早く作品を仕上げるための機材の操作スピードが求められるため、駆け出し時代のJディラにとってはプロユースの技術を身につけるうえで、良いトレーニングとなった。後年、ザ・ルーツのツアー途中でクエストラブがJディラの自宅に立ち寄った際に同じルールで競ったところまったく歯が立たなかったというエピソードも『Dilla Time』で紹介されている(第7章)。
なお、オリジナルのHip Hop Shopは1997年に閉店しており、現在同じ建物に入居しているのは名前だけは同じだがモーリス・マローンとは関係が無いまったく別の店である。
❸Stanley Hong’s Mannia Cafe
所在地:249 E Baltimore Ave, Detroit, MI
1990年代にモーリス・マローンの仕切りで開催されていた週次のイベント”The Rhythm Kichen”の会場となった中華料理店。同イベントには当時ははぐれ者だったヒップホップMCやDJがデトロイト中から集まった。そこはマローンが扱っていたアパレルや地元ラッパーのミックステープの流通の場となったほか、デトロイトの他のクラブが完全にスルーしていた当時のニューヨークの最新鋭のインディーラップからキングストンのダンスホールレゲエまでがプレイされる画期的な場だった。
このイベントにはJディラはじめ、T-3、バーティンといった後にスラムビレッジを結成するメンバーも足しげく通っており、ファットキャットことロニー・ワッツや、❷でも登場したプルーフことデショーン・ホルトンら、後に共演することになる重要人物たちとの出会いを果たしている。
❹Saint Andrew’s Hall
所在地:431 E Congress St, Detroit, MI
Hip Hop Shop、Mannia Cafeに続いて登場した、ヒップホップをフィーチャーしたイベントの会場となったクラブ。1994年から毎週金曜に開催された”Three Floors of Fun”はその名の通り、クラブの階ごとに違う音楽ジャンルのDJがプレイするのが特徴で、ヒップホップは1階のメインフロアを占めていた。
最晩年までJディラに寄り添った人物のひとりであるDJハウスシューズことマイケル・ブキャナンは、若い頃”Three Floors”のレジデントDJだった。彼が抜てきされたのは、前任のヒップホップDJが、地下のフロアで活動しているオルタナティブ・ロックのDJに対して暴力事件を起こしてイベントに出演できなくなり、代理が必要になったことがきっかけだった。
❺Tigers
所在地:Woodward Avenue & 7 Mile, Detroit, MI
Conant Gardensにあるクラブのひとつで、Woodward Avenueと7 Mile Roadの交差点に位置する。店名はMLBのデトロイト・タイガースからとられている。次項⑥Chocolate Cityと同様、Conant Gardensのクラブ群は基本的にはストリップクラブの色彩が強いのだが、DJセットや食事の提供にも力を入れているらしい。
TigersがJディラの人生において重要なのは、そこで最初の内縁の妻であり、のちに娘を授かることになるジョイレット・ハンター(ジョイ)に出会ったからだ。ジョイは当時Tigersでダンサーとして働いていた。その時点でJディラは店の常連として認知されており、羽振りが良いのでジョイは彼をドラッグディーラーだと思ったらしい。出会いはスラムビレッジが1枚目のアルバム”Fan-Tas-Tic”をリリースする直前、1996年末だった。
❻Chocolate City
※現在閉店
Tigersと並んでデトロイト時代のJディラとフランク・ブッシュがよく遊んでいたのが、同じくConant Gardensにあったこのナイトクラブである。彼らは最初は主に食事が目的で訪れていたらしいが同時に、最新のヒップホップ・R&Bや、当時”ghetto tech”あるいは”booty tech”と呼ばれていたマイアミ・ベースとデトロイト・テクノを組み合わせたハイテンポなダンスミュージックなどをかけるDJたちにも耳を傾けた。そして1曲あたり10ドルでストリッパーからダンスを買い、女性客たちにも声をかけたりするようになった。
Jディラは対外的にはおとなしく控えめなタイプだったようだが、当時は既にQティップからのフックアップやファーサイド”Runnin’”のプロデュースなどを経て経済的な成功を収めつつあったため、どうしても夜遊びの場では目立った。彼を相手に良からぬことをたくらむ連中もいたわけだが、最初の頃に面倒見役となったのが本名ロニー・ケリー、Killa Ghanzと呼ばれた男である。Chocolate Cityにて、フランク・ブッシュと同じく幼馴染であるデリック・ハーベイの紹介でディラが知り合うようになったこの人物はデトロイトの東部でよく知られた大麻バーを経営しており、あちこちに顔がきくナイトライフの大物だった。Killa Ghanzが渡した拳銃のせいで、銃器の不法所持で留置所行きになったりするトラブルもあったいっぽうで、ディラが後にプロップスを得てクラブや客自体が彼を守るようになるまでの間は、「ボディガード兼外交官」の存在は重要だった。
❼Harmonie Park
所在地:Randolph Street, Detroit, MI
現在につながるデトロイトの街区設計は19世紀初頭にミシガン準州の最高判事だったオーガスタス・ウッドウォードの手になるものだ。ウッドウォードはパリやワシントンD.Cにならって放射状の道路を採用したため、デトロイトの中心街には現在でも三角形のブロックが多くある。Harmonie Parkはこの歴史を伝える三角形の緑地公園である。かつてこの周辺にはドイツ系移民が多く住んでおり、自分たちの文化的ルーツを忘れないための合唱団が結成された。やがて合唱団の活動拠点として1874年にHarmonie Clubhouseという集会所が建てられ、現在ではミシガン州の文化遺産として保存されている。Harmonie Parkは、~Clubhouseと通りを挟んで向かいに位置しており、ドイツ語でハーモニーを意味する名称も合唱からとられたものだ。
Jディラの生家であるMadison-Lenox Hotelはこの公園に隣接していて、父親のビバリーはよく幼いJディラを連れてピクニックにきていた。Jディラはよくそこにポータブルのレコードプレイヤーを持ち込み、道行く人に音楽を聴かせるなど、DJの片鱗を現していたという。
❽Madison-Lenox Hotel
所在地:The Madison, 1555 Broadway St, Detroit, MI
デトロイトの中心地、マディソン通り沿いに1903年に開業したホテルで、Jディラが生まれた1974年時点でヤンシー一家はここに住んでいた。その理由は母親のモーリーンが住み込みでホテルの1階にあったレストランで働いていたためだ。この生活はJディラが8歳の時に4人兄弟の末っ子のジョン(現在イラJの名前で活動)が生まれるまで続いた。
引越の理由は部屋が手狭になったせいというのもあるが、1980年頃までにはホテルの建物が荒廃し、じょじょに保証能力が無くて通常の賃貸契約ができない、高齢の低所得者向けの集合住宅という様相を呈してきたから、という事情も大きかったようだ。
デトロイトは慢性的に財政や治安の問題を抱えており、何度か大規模な再開発を経験している。そのたびにこのホテルの取り壊しの話も持ち上がったが、街の歴史を象徴する建物として保存運動家たちに守られ、100年を越えて生き延びてきた。しかし2006年2月5日開催のスーパーボウルをデトロイトがホストするに先立ち、街区整理の一環として2005年に解体された。当該のスーパーボウル開催はJディラが亡くなる5日前のことだった。
❾Davis Aerospace Tech High
所在地:900 Dickerson Ave, Detroit, MI
1943年創立。航空宇宙技術系の人材育成を目的とするミシガン州立の高校。Jディラはここに9年生から卒業まで4年間通った。ディラは航空機の整備などに興味はなく、本当はデリック・ハーベイやフランク・ブッシュといった馴染みが通うPershing高校に行きたかったのだが、手に職をつけて空港で整備士として働くことを望んだ母親がそれを許さなかった。しかし結局は異母兄弟であるアール・ハーストの導きにより、Pershingでヒップホップに情熱的に取り組んでいたT-3やバーティンとラップバトルを通じて出会うことになる。DavisにせよPershingにせよ、1980年代末のデトロイトではまだまだヒップホップは高校生にとってサブカル色の強い趣味だったのであり、どちらの学校でも日陰者だった彼らが出会うのは必然だったのかもしれない。
また、Davisでのカリキュラムに一切の興味がなかったことからディラは授業をさぼりがちにもなり、代わりに最初の師といえるアンプ・フィドラーの家に出入りするようになった。
❿Detroit Institute of Arts
所在:5200 Woodward Ave, Detroit, MI
1885年開館。所蔵品は65,000点を数え、年間70万人以上が訪れる美術館で、DIAと呼ばれる。ボザール様式の建物に囲まれたRivera Courtという中庭にはメキシコ人キュビズム画家のディエゴ・リベラが1933年に描いたフレスコ大壁画”Detroit Industry”があり、重工業で繁栄を得たデトロイトを象徴する場所となっている。
2013年7月に長年積み重なった債務超過で破産を申請したデトロイト市は、DIAの所蔵品を売却し債務整理に充当しようとしたが、デトロイト市民や米国内外からの支援によりこの計画は無くなり、”Detroit Industry”も生き延びた。
後年、Rivera Courtは”The Music of J Dilla”というJディラトリビュートイベントの会場となり、ミゲル・アトウッド・ファーガソンが指揮するオーケストラがディラの作品を演奏したりしている。2月にデトロイトを訪れれば、こうしたイベントに遭遇できるかもしれない。
⓫BLKOUT Walls Building Mural
所在:7807 Oakland Ave, Detroit, MI
ウッドワード通り沿いにあるレンガ造りの建物が並ぶ区画では、2021年から隔年でBLKOUT Walls Street Art Festivalが開催されている。市の財政破綻以後何かと荒れがちなデトロイトの景観をストリートアートの力で再生しようという催しで、米国内外から何十人ものアーティストが集まり、レンガの壁にミューラルを描いていく。
デトロイトを代表する文化アイコンであるJディラの肖像もあり、メキシコにルーツを持つMarka27ことビクター・キニョーネズの手になる、巨大かつ驚異的なディテールが描きこまれた壁画を、ホルブルック通りとオークランド通りの角に立つ建物で見ることができる。