[古い日記]リアリティTVは現実よりもリアル(2010-04-22)
2010年4月22日木曜日
MTV Taking the Stageの摘要
MTV製作のTaking The StageというリアリティTV番組にはまっている。
先月の頭に帰省していたときに実家のケーブルテレビでたまたま見始めたのだが、これが面白くて面白くて一気に引き込まれてしまった。
シーズン1の放送は終了しており、全編フルエピソードをMTVのホームページで見ることができる。(※現在は公開終了)
2010年時点でアメリカではシーズン2が放送中である。
Taking The Stageはオハイオ州シンシナティの芸能学校School of Creative and Performing Arts(以下SCPA)に舞台をとる。
サラ・ジェシカ・パーカーやニック・ラシェイなどのスターを輩出している名門校であり、ダンサーや歌手や舞台俳優を目指す才能あふれる高校生たちが、入学のための厳しいオーディションを勝ち抜き、夢と根性を胸に日々自分たちの芸に磨きをかけている。
シーズン1は、SCPAでもトップのエリートバレリーナJasmineと、SCPAに新しく転入してきたヒップホップダンサーTylerの色恋沙汰を中心に展開する。
舞踏スタイルも出自もぜんぜん違う二人が、学校主催のダンス大会でペアを組んだことがきっかけであーなってこーなってあーなってこーなって・・・っていう、どベタなストーリー。
でも、彼らを取り巻く個性豊かな友人たちとの友情やバラエティ豊かなサブイベントや恋愛と夢との葛藤など、エンタメ要素満載。
また、映像と音楽のコンビネーションがめちゃくちゃカッコ良くてその辺はさすがMTV。
とまあ、Taking The Stageを簡単に説明するとこんな感じである。
とりあえずシーズン1のトレイラーを貼っておこう。
こういう映像とナレーションに対してわたしは弱い。
夢を持ってめっちゃ頑張ってるピチピチの高校生たちが繰り広げるドラマティックな人間模様に、くだらねー、、、幼稚だー、、、と思いつつもついつい引き込まれる。
Laguna BeachとかThe CityとかThe Hillsとかにしてもそうだけども(あいのりも)、リアリティTVのドラマチックさの背景には編集と演出があって、それが「あるがままの現実」と必ずしも対応していないことはアホのわしだってもちろんわかっとる。
あんなに次々といろいろな事件が起こるわけないし、それをことごとくうまいこと奇麗なアングルと明瞭な音声で記録できているのはなんかヘン。それに設定がもろ"Save The Last Dance"ないし"Step Up"な感じで、おもろないという人はとことんおもろないと感じるタイプの映像作品なのかもしれない。
真偽が共有されないエンターテイメント
というわけで、「ヤラセ乙」などと、リアリティTVなど最初から相手にしない人々がいる一方で、しかしそれでも私は、Taking The Stageの中で起こっていることが確かに現実だと感じる。
これはリアリティTVという作品のスタイルが、一種のダブルコンティンジェンシーを視聴者との関係において生じせしめていることに起因するのではないか。
つまり、通常の演劇や厳密な意味でのドキュメンタリーと異なり、リアリティTVではどこまでが「あるがまま」でどこからが「台本」かの線引きが曖昧である。
もちろん配給側はすべてが「リアル」だと謳ってはいるが、すでに述べたように、それに加えて多分に演出/編集/脚色/ヤラセが含まれているのは明らかだし、「くだらない茶番」とディスる輩はどこにでもいる。
ダブルコンティンジェンシーは、もともと社会学者のタルコット・パーソンズによって提示された、自我と他者の対峙というコミュニケーションの原基的状況を指す概念だ。
つまり、人物AとBが対峙しているとき、互いに相手の出方を予期することによって、一種の決定不可能性が生じてくる。
すなわち両者とも、もし相手が自分が望んでいる行為をしてくれるなら、自分も相手の望む行為をしてやろうと考える。
かくしてどちらからも行動を起こしえず、相互行為は不発に終わってしまうはずである。
その結果、秩序を備えた相互行為はまったく成立しえないことになってしまう。
そうならないためには、相互行為の前提となる最低限の規範が、あらかじめAB両者に共有されていなければならない。。というような話であった。
つまりこの文脈に則すると、「リアリティTVはヤラセかどうか」という問いに対する答えを視聴者が持っていなければ、リアリティTVの視聴というコミュニケーションはスタックしてしまい、成立しないということになる。
しかし既に確認したように、「リアリティTVはヤラセかどうか」という問いに対する答えは事実上われわれに開かれたままである。
それでもリアリティTVはエンターテイメントとして成立しているし、Taking The Stageは多くの視聴者を得ている。
ニクラス・ルーマンの社会理論はこのことに対するひとつの説明を与えてくれよう。
ルーマンはダブルコンティンジェンシー問題の解決は、規範の共有ではなく、自己と他者のパースペクティブの非同一性の体験そのものにより立ち現れる社会性によってもたらされるとする。
つまり重要なのは差異そのものであって、差異の架橋ではないのだ。
コミュニケーションにおいて相手の出方に関する仮定(予期)を立て、それをもとにしてコミュニケーションを継続するなかで、相手の反応を通して当の予期が裏付けられたり裏切られたりする。
このプロセスの反復を通して予期を調整し修正することによって他者との共通の基盤が確立され、接触が続いていく。
ルーマンは『社会システム理論』で以下のように述べている。
規定の契機は、コンセンサスによって基礎づけられる必要がないばかりか、「真」である必要すらない。
ダブルコンティンジェンシーにおいては、単なる仮定がリアリティの確かさを産出する。
リアリティTVの視聴において、われわれはそれが「現実」だと仮定した瞬間からその演劇的構造に巻き込まれてしまう。
リアル/非リアルを判断する規範が共有されていなくても、それがリアルだと仮定した瞬間からリアリティTVは文字通りの意味で現実になってしまう。
だからこそ引き込まれるし、「虚構である」という規範によって担保された通常のドラマの視聴よりも吸引力は強い。
いやいや、視聴者の間でも、視聴者と配給者の間でも規範が共有されていないのだから、コミュニケーションとしては、より不安定だという主張もあろう。
しかし「規範が共有されていない」というのはある意味賭けでありながら、エンターテイメントとしての質を高める強力なアドバンテージとなりうると思うのだ。
決定不可能性が転移を引き起こす
リアリティTVがなぜ「リアル」であるかをさらに考えていくと、ジャック・ラカンが『エクリⅠ』で取り上げていた「囚人のゲーム」を思い出す。
一見するとこの「ゲーム」では、各個人の合理的推論の相互作用から、ネゴシエーションを介してひとつの「全体的秩序」たる共有知が相発してくる過程が描き出されているように見える。
しかし純粋に論理的に考えれば、ラカンのこの議論は問題をはらんでいる。
「囚人のジレンマ」に代表される通常のゲーム理論では、各人の合理的推論から共通の秩序が成立する可能性をいったん否定したうえで、反復的な試行錯誤のなかからその秩序が形成される蓋然性とその条件を探求するか、さもなければ「秩序の必然性」の仮定から、別のレベルに位置する秩序を天下り的に導出する、というように議論が進められるはずだからだ。
一方ラカンのゲームでは、この種の論理的推論にはない要素が付加されている。
それは時間の経過のなかでの現実的な接触である。
無制限に与えられた時間のなかで、他人が動く/動かないという二者択一を手がかりとする論理的推論をおこなっている限り、このゲームは答えのでない堂々巡りのなかに留まらざるを得ない。
しかしこのゲームにおいては、他人より早く結論に到達しなければならない。
この時間的圧力のゆえに各人は、場合分け手続きによるシミュレーションを放棄し、自分の色については未決定にしておいたまま、何が起こるかを待つという状態に留まることになる。
この未決定状態のうちにある三人がお互いを注視し合うことによって、個人の推論によっては到達不可能な「真理」への跳躍が可能となるのだ。
この跳躍を可能にするのは、あらかじめ間主観的に分有されている知識や規則でも、個人のうちに備わっている能力でもなく、また共同体と個人を同時に産出する、契約のような特定の行為の本質でもない。
「真理」をもたらすのは、限られたタイム・スパンのなかで、確実な根拠を持たないまま他者との現実の出会いに自らを賭けること。
すなわち「転移」である。
あるいは「愛」ともいう。
リアリティTVは、コンテンツが現実/虚構であることを曖昧にすることで、転移を極めて強力な形で引き起こしているといえる。
端的にこれが、人々が、というかわたしがリアリティTVに魅かれる理由だと考える。
転移が真理を生み出すのである。リアリティTVの事実性に転移した瞬間、わたしにとってリアリティTVはリアルになる。
転移が真理をつくりだす
「単なる仮定」がリアリティを生み出すとしたルーマンも、この種の跳躍がコミュニケーションの作動に不可欠であるとしており、基本的には同じことを言っていると思う。
コミュニケーションの当事者は、どんな行動をとるのも自由だと感じるはずだが、自己確定を避けるという自由だけは持ちえない。
誰もが判断を下さなければならない。
リアリティTV(の内容の一部)がヤラセかどうかを判断せずに視聴することはできないのだ。
ルーマンの社会システム理論をガチガチに解釈すれば、このような跳躍が何を契機として起こるかを問うてはならないことになろう。
コミュニケーションこそが間主観性の条件であって、その逆ではないからだ。
しかしここでもう一歩議論を進め、「跳躍」あるいは「仮定」あるいは「転移」あるいは「愛」が可能になる背景のようなものの存在を問うてみたい。
結論を先取りすると、リアリティTVは転移ないし愛の基底となる「原初的に抑圧された」神話、すなわち「根源的な空想」の表出を担っている。
Taking The Stageの才能あふれる2人の若く美しい男女という耐え難い理想的なカップルを「現実」として受け入れるとき、わたしは「規範的な」男女の性交を交えている空想に向き合うことになる。
恋愛関係にはこうした空想による二重化が必要である。
「正常な」性行為にはこうした空想的な補足が幽霊のような影として付随する必要がある。
これは「性的関係は存在しない」という精神分析のテーゼのひとつの証拠でもある。
TylerとJasmineは注目の的になって、それらしくふるまってはいるが、リアリティTVというメディアに媒介される過程で、以上述べたようなダブルコンティンジェンシーを解決する過程で、彼らの言動はある意味で他のカップルの「実際のセックス」という平凡な現実よりも現実的になる。
舞台芸術の専門学校に通う高校生。イケメン。美少女。夢。才能。理想的出会い。友情。事件。ドラマ。
言ってしまえば、そうしたすべての出来過ぎ感、あるいはウソくささこそが、Taking The Stageを現実的にしている。
つまり、少なくともわたしにとって、二人の行動はすべて「崇高」(cf.カント)である。彼らの行動を通じてあらわれるのは、他の「実際の」カップルにはけっして到達し得ない、究極の「完全なカップル」という空想であり、不可能なユートピア的夢である。
したがって、TylerとJasmineの行為は、不可能な空想を体現したものであり、その空想は幽霊として「本当の」セックスをしている「本物の」カップルに付随し、それを強化する。
そして、ここでのパラドックスは、彼らにそのようなことが可能なのは彼らが「本物のカップル」ではない可能性が残されているからである、ということなのだ。
わたしたちは性的生活の中でパートナーを変えるとき、A子に付随する言説体系からB子の言説体系へと移行すること、いわば物語の「様式」を変えることを余儀なくされる。
ひとがひとつの物語の様式から「過去を書き換える」べく他の様式に移行するとき、新しく現れた「表現言語」は、自身の暴力的な介入にまつわるトラウマ的な過剰性を、すなわち古い言説体系と新しい言説体系の間の「消滅する媒介者」を、排除/抑圧しなければならない。そして、この「消滅する媒介者」は、どこにも組み込まれず、排除される限りにおいて、「実際の」歴史の、「他の場面」としてその歴史に取り付き続ける。
したがって、ロゴスの支配の基礎である、この排除された空想は、幽霊的な存在であり、そのときどきの象徴的な枠組みが機能し続けるためにはつねに存在しなければならない亡霊なのである。
Taking The Stageに現れている理想的恋愛は、決してそれ自体空想ではない。
よりダイレクトな形で、設定上、「実際の」歴史の「他の場面」として立ち現れる。
Taking The Stageシーズン1という歴史は、現実を二重化する力を持っているという点で、繰り返しになるが、ヤラセの可能性を含みつつも、きわめて現実的である。
リアリティTVはそれが現実であることを信じる跳躍を契機として機能するエンターテイメントである。
そしてわたしたちの「実際」の生活において真理を生み出すさまざまな「転移」や「愛」の基底ともなっている。
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