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密教・心理ケア入門講座第ニ回目

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先月に続き、密教・心理ケア入門講座に行ってきました。
2回目はスピリチュアルケアと仏教について。
勉強した事を自分なりの解釈で綴っているので、参考程度に読んでください。


講師の方は森崎雅好先生。

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高野山大学ホームページから拝借
https://www.koyasan-u.ac.jp/info/teacher/masayoshi_morisaki/

千葉で臨床心理士をしていたが、相談を受けているうちに、心理学では対応できない部分に突き当たって解明すべく出家。
僧侶と、引きこもり支援、自死遺族支援、自殺防止活動、麓の病院で緩和ケア、心理相談所をしています。
「はじめての、「密教的生き方」入門」という著書を出版中。

前回は心と体が一体のようでいて、バラバラである事をワークで体験して、人間は常に過去の事や未来の事に心を支配されて、今ここに留まる事が難しい原因と、それを克服するにはどうすればよいのかを勉強しました。

今回は、死についての悩みや苦しみに向き合っていく事がテーマです。
一瞬の場合もあるし、治療の打つ手がないという場合もあるでしょう。どんな形であれ、生きとし生けるものは必ず死を迎えますが、死について取り組む時に認識する「いのち」の痛みを緩和する取り組みがスピリチュアルケアです。

内容が大学講義と同レベルらしく、すごく濃厚でノートの記載と思考が追いつきませんでした😅

さて、スピリチュアルケアについては自分で勉強したのと、上智大学のアルフォンス・デーケン氏の死生学を受講したベースがあるので、助かりました。
ちなみにスピリチュアルケアというのは、ユダヤやキリスト教がベースになってるのもあり、WHOでは1983年にスピリチュアルとは何か決まっていました。
日本は2007年にスピリチュアルケア学会が発足して、WHOが2002年にだしたがん対策基本法を2017年に改正・施行、緩和ケアのさらなる推進が示されました。
日本は適用がとにかくすごく遅い。
死生学のアルフォンス・デーケン氏の講義の時に、日本は死生学が中々浸透しなかった苦労を聞きました。

スピリチュアルケアのスピリチュアルというのはユダヤ・キリスト教の聖書に、神は自分に似せて作った土の塊に息を吹き込んで人間ができた記述があります。その息を「ラテン語の spiritus (息、呼吸、魂、勇気、活気などの意)に由来」してて、英語でスピリットという言葉になりました。
スピリチュアルは「キリスト教用語で、霊的であること、霊魂に関するさま。英語では、宗教的・精神的な物事、教会に関する事柄、または、神の、聖霊の、霊の、魂の、精神の、超自然的な、神聖な、教会の、などを意味」します。

「宗教、スピリチュアリズムとして使われる時は、Saint Spirit: 聖霊, Angel: 天使、霊、霊魂、魂、心霊、亡霊。 
宗教色が薄くなった用法としては、精神、情熱、根性。本質、意味、意図。グループのメンバーで共有している価値観、信念。」

*Wikipedia引用

なので、仏教国である日本には無い概念であり、言葉だったので、適切な表現をつけることができなかったのも仕方が無いのでしょう。

そもそも釈迦の説いた仏教というのは、死後49日経つと何かしらに生まれ変わってしまう。という考え方であり、霊や魂という概念がないのです。
秋川雅史さんの「千の風になって」の歌詞にあるように墓に眠ってたり、いることもありません。なので、キリスト教で言うところの天国に値する世界も本当は無いのです。

では何故墓を作ったり、法事をするのかというと、これは全て生きている者(有情:うじょう)の情念(感情)の塊を少しでも解消するために行っています。

釈迦は死についてや死後についての弟子の質問に、自分でどうにもできない事について執着しても無駄である事を伝え、後は黙って答えなかったそうです。
我々生きとし生けるものは、みんな気づいたら既に生きていて(いのちの意志)、心と体がある事を自覚してて、こう生きたいという意思で動き回ります。これが「わたしという意識」を生み出してています。
しかし、非常にややこしいんですが仏教では心も体も無常であり消えてなくなるので、「わたし」という独立した存在は何も無いと否定しています。
なので、僧侶によって霊とか魂とかに否定的な態度を取る人がいるのは、仏教の教義をそのまま信仰しているからなんですね。
イジワルではありません。

死というのは仏教の教義にあるとおり、わたしという意識は自分が生み出した幻であって、存在しないと現実的に証明されていく現象なので、実際に突きつけられた時に自己の存在と意味の消滅から生じる苦しみや悩みや後悔が起こります。
これをスピリチュアル・ペインといって、身体的、心理的、社会的、霊的なものの痛みとして様々に感じられます。

✳スピリチュアルという言葉は「精神的な。霊的な。宗教的な。」と今の国語辞典に記載されていました。
ケアというのは、「心づかい。配慮。世話すること。介護や看護」と記載されてましたね。

ウィキペディア スピリチュアルケアについて

ともあれ、生きとし生けるものは必ず死に向き合わねばならない時が来るもので、その際に宗教の教義に従って向き合うのか、個人の思想や宗教観に従って向き合うのかに分かれていきます。

その際のスピリチュアルペインを緩和するために、スピリチュアルケアというものを行いますが、出どころがキリスト教から来てますから宗教的な因子が含まれているけれど、個人の思想や信仰に従って向き合っていくケアになってて宗教的なケアとは別物になっています。

宗教的ケアというのは、個人の思想や信仰は関係なく、完全に宗教の教義に従ったケアになります。日本は宗教的ケアの感覚が根強く、今でも終活って何?と聞くくらい死について考えていく人は少ないのです。

我々人間が、「いのち」と定義するものはなにか。それは「生物が生きているもとになる力。生命」と国語辞典に載っていました。
森崎先生はじゃあその力とはなんぞやと調べて→エネルギーに行き着き、エネルギーとはなんぞやと調べて→生き物を動かしているカロリー(熱量)
と答えが出たそうです。

こういう1つ1つの追求って大事ですね。
言葉の意味がわかると、自分の感覚とも繋がって腑に落ちたりしますからね。

いのちというものは人間の心と体を包み込んでいるもので、意志(生きようとする力)を持っています。そして意思(こうしたいという力)を持って行動するのですが、その奥深い所に我々は「わたしの意識」があります。これは自分で動かせないものに対しても執着してしまう意識であり、これが時に意思を支配していのちにまで影響を与える行動を起こさせてしまう。
これがカルマ=業です。
業は潜勢力といって、潜んで周りに影響を及ぼす力です。この業を作らないように生きようとして出家するのです。

釈迦の教えは完全出家だったので、非常に厳しかったのですが、カースト制でバラモンしか成仏できないとされていた時代だったこともあり、誰でも成仏できると説いて回ってた釈迦の教えは多くの出家者を続出させました。
急にお金を稼いでくれる家の主が出家したら、家族は生活ができません。
なので、出家しないで修行をしていく教えが生まれました。
そして、釈迦が亡くなった後、少しずつもとのカースト制や神を祀る民間信仰へと信者は離れていって仏教は危機を迎えます。
弟子達はどうにか教えを遺すために、ヒンズー教など仏教以前の教えや神々への信仰を取り入れながら発展していき、最終的に密教というものができました。
密教は、釈迦が教えた修行して成仏する教えとは真逆の、既に全ての象徴である大日如来として認識し、有情のために積善して生きましょう。という教えを広めました。
仏教は自業自得を無くすために我欲を無くして、できるだけ業を思考ですら思わない生活を続けるという修行でしたが、自業自得を解消するという事はとても大変なので、密教では神仏にサポートしていただくために加持祈祷をする。
密教の僧侶は有情と神仏の仲介者なのです。

密教では「いのち」を大日如来として表しています。本来大日如来は全ての象徴なので描かれないのが正しいのですが、人々に理解してもらいやすくするために描かれているのだとか。
インドではそれを「1+1+1+1=5」というパンチャ構造という名前で昔から存在していて、数学では答えは4のはずなのに+1が存在している概念。この+1は全ての象徴である大日如来、つまり物事を包み込んでいる空間であり「いのち」なのです。(密教の世界では)

よく、人がアクビをしたら伝染るとか、誰かが何かをしたら他の人が次々と始めるという事がありますね。これは人間ひとりひとりの「いのち」と「いのち」が融合して心と体に伝わるからです。
カルマ=業と言って、潜んで影響を及ぼす力(潜勢力)です。
仏教では、全ての生きとし生けるものは業によって生まれ、業によって死ぬ事を繰り返す転生輪廻があります。
自分がどのような業を生み出して、どのような業を断って生きているか気にした事がありますでしょうか?
気がついたら生きている我々は、自分が周りにどのような影響を及ぼして生きているか気づいてない事ばかりで、死を自分が心底実感しなければ業の影響の偉大さに目を向けることはありません。
釈迦も死に直面して初めて自らの業に気づき、業のつながりで生きとし生けるものは繋がっている事を悟りました。

わざわざ心身痛めつける修行をするのは、わたしという意識に心身を支配されて、いつの間にか「いのち」の繋がり、業の影響を忘れてしまわないようにするためにある。
「魔がさした」という言葉がありますけど、まさに忘れちゃって心身を支配された状態ですね。
神職や聖職者に限らず、我々人間だけが知性を持っているが故にわたしという意識に支配されやすい証です。
常に良い行いをしたか悪い行いをしたかにとらわれるのではなく、自分は今何を考え、何をしようとしてるのか、自らが生み出す業の影響力を軽んじたり忘れないように、わたしという意識を鎮めておく事が大切なのです。

死生観は人それぞれです。
介護や看取りを行う時に自らがどのような死生観を持っているかがわからないと、ケアする方もされる方も意思疎通が難しくなってしまいますから、今からでも少しずつ自分の死生観、価値観、世界観などに目を向けておくといいですね。

釈迦が説いたとされる真理
○諸行無常:常に形あるものは変わる
○諸法無我:常にわたしという意識は無い
○涅槃寂静:常に静かで安らかな世界はある
○一切皆苦(一切行苦):全ての行いは業を生み出す
は、感情を持つ生きとし生けるもの共通の真理です。この真理の中で常にどのような生き方をしていけばよいかは、自らの心と体の働きを知らねばなりません。

○色:形あるもの
○受:感じ取る力
○想:それはどんな影響を及ぼすものか思い出す力
○行:具体的に形として実体化する力
○識:総合的にどういうものなのか判断する力

よく「魔がさした」とか、「わかっていたけどやめられなかった」という言葉を聞くことがあります。この結果を成立させるか不成立に終わるかは行の段階で決まります。
速さは一瞬。それが運命を変える結果につながるものもあれば、目に見えるまでの結果につながらないものもあります。
もちろん人生の大転機としてよい結果に転換する場合もありますね。
だから正しいか間違ってるかで判断せず、それを行ったらどういう影響が周りに伝わるかに目を向けて、大きな1歩より小さな1歩を踏み続けていく方がいいのです。大きな1歩は自分で計画したりしなくても訪れますから。
そして我々は無知な存在ですから、踏みとどまらねばならなかった事を知らない内に行っていると知っておくのも大切です。
これを知っておかないと目に見えるものや感じるものだけが全てと束縛されて、無自覚な業をばら撒き、どこかでどっさりと受け取る羽目になります。

さて、自分自身がこの世から消えてなくなる死をどのように迎えるか。
我々生きとし生けるものは、生まれた時から少しずつこの世から物質的に霧散していく準備を、気づかないうちに踏み出し続けています。

しかし、生きている間に遺していくありとあらゆる行いの結果は、本人がどれだけ霧散させてきたかによります。ずっと残り続けてるものもありますよね。
業というもののつながりで我々は生まれて死んで、また生まれるので、誰かが生み出した業がその人の死をもって消えてなくなる事はありません。

なので、太古の昔から人々は誰に教わったわけでもなく情念という見えない感情のエネルギーを綺麗にして霧散させる儀式をしました。神に祈ったり、自然に祈ったり、遺言を守ったり。もちろん生きている者たちの念も含めてね。
平安時代なんか怨霊の祟りとかって必死で弔ったりしてたくらい、念の力の凄さを信じていたわけですしね。

最後に霊や魂について森崎先生がいわれてた事を聞いてて、霊とか魂という存在は仏教では否定されているが、念というのは人間の感情から生まれて来るものだし、その感情が業の源であり、それが誰かに伝染したり影響を与えたり物質化したりするわけですから、それを霊や魂という名前で認識していると考えたらその存在を全て否定する事はできないですよね。


来年は心理ケアではなくて、真言密教についての講座。弘法大師空海の思想入門を学んできます。

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