【エッセイ】20代の自分へ。その「遠回り」が ”自分の色” だと思えるときが、ちゃんと来ますよ。
◆27歳での上京
5年前、27歳で僕は上京した。
東京に引っ越したことは、ほとんどの知人に伝えなかった。「いまさら上京?」とか思われるかもなんて考えて、少し恥ずかしかったから。
その頃の貯金は本当にゼロだった。引越代と、詐欺のように高い東京の敷金は親から借金をして払った。奨学金の残債も200万くらい。
20代後半にもなって、「失業保険 もらい方」や「生活保護 条件」なんてググることになるとは思いもしなかった。
東京でようやく見つけた仕事も、契約社員での雇用だった。
会社自体は大企業だったが、都合に合わせて付け外しができる鉛筆キャップのような身分。
それでも、こんな得体の知れない人間を良く採用してくれたなと思う。後々聞いた話だと、想定外に退職者が続出してかなり人に困っていたらしい。まあそうだろうな。
通勤電車ではつり革の正しい持ち方もわからない。逆手か?順手か?それでもエチケットである無表情を保つ。駅の改札よりもずっと未来的な社員ゲートを通って出勤する。
ものすごい違和感。人間界に紛れ込んだ妖怪族みたいな心境だった。
同じタイミングで社会人になった同級生達。社内の役職が一つ上がったなんてやつもいたり、結婚して子供ができていたり、着々と人生の駒を進めていた。
対して僕は、「20代向け」「審査甘め」とネットに紹介されているクレジットカードの入会審査も見事に落ちたり、結婚式に招待されると「3万はキッツイなあ」と本気で断る理由を考えたり、大学を出た時となんら変わらない有様だった。
俺は大きく出遅れた。
今まで何をしていた?
これは取り戻せるものなんだろうか。
東京に出て来て、周囲との差がはっきりと見えてきた。
そして焦った。
◆大外回りの20代前半
東京に出るまで何をしていたか。
地方の大学での就職活動は、文学部での勉強が活かせるかもという安直な考えで、新聞社や地方テレビ局などを受けまくっていた。
新聞社は結構惜しいところまで行ったものもあったが、採用5人とか門戸が狭すぎる会社ばかり受けたのがよくなかった。
入りたい企業からの内定は一つも取れなかった。
結局、広島の小さな広告会社と、九州の通販会社から内定をもらい、年収で天秤にかけて広告会社に入った。
ちなみに受けていた新聞社に全て落ちると、すぐに取っていた新聞は解約した。つまりそのくらいの気持ちだったのだ。
時限爆弾を持たされて走ってるような就活の中で、慌てて夢っぽいものをこしらえてはみたけど、本当にやりたいことなんて頭の中のどこにもなかった。
そして新卒で選んだ小さな広告会社は、お手本のようなブラック企業だった。
25歳くらいまで残業100時間以下の生活を本当に知らなかった。毎週2回、睡眠4時間ほどで往復500kmの県外営業に車で行かされる。何度か高速で事故りかけて、さすがに身の危険を感じた。
ここは労働者の耐久テストでもしているんじゃないか、と本気で思った。
もともと我慢強い人間でもなく、それを「我慢すべきもの」とも思えなかった。鬱憤が溜まりに溜まった挙句に上司と大喧嘩をして、「泳げたいやきくん」のように会社から出て行った。25歳。
次にどうするかも決めずに会社を飛び出した僕は、とりあえず海外に行くことにした。
こう文面で書くと「ギャグかな?」ってくらい頭悪そうな行動だけど、迷い迷った若者が相応に悩んでの結論だったのだ。
日本以外の生活を経験してみたかったという好奇心もあった気がするし、海外に行くとなれば、必死に道を模索してる感も出て文句も言われないだろう、という変な打算もあったかもしれない。
理由はどうあれ、26歳の1年間をカナダのトロントで過ごすことになる。
だが準備不足の海外生活では、想定以上に苦労をすることになった。
(このあたりは、留学カウンセラーの時の話も読んでいただければ)
ともあれ窮地もありながら、結果的には現地の留学カウンセラーとして帰国まで働くことができた。「語学学校に通ってバイトしておしまい」 がデフォルトのワーホリ生活で、これは結構頑張ったんじゃないかと思う。
しかし、その1年間でもやりたいことが結局思いつけず、ビジョンも金もないまま帰国した僕は、とりあえず九州の実家に引っ込んで家電量販店でプリンターの販売員をしながら過ごした。
前職に比べたら、家電販売員は楽で仕方なかった。そもそも残業がない。そして家に帰れば飯が用意されている実家生活。こんな楽に生きることもできるのか・・と思った。
徐々に自分が、炒めた玉ねぎみたくフニャっていく感じがした。
さすがにこのままずっと実家はまずいだろ、ということで、プリンターを売りながら就職活動を始めた。
広告営業しか経験がなかった僕は、それ以外の職種で納得いく条件の仕事は見つけられそうになかった。
そもそも他にやりたいこともないし、それなら腹をくくって広告業界でもう一回チャレンジしていこう、ということで、東京の会社に契約社員として飛び込むことになった。
これが東京行きまでの経緯だ。
◆挫折と新しい道
東京の会社では、これまでの経験は全く通用しなかった。
考えたら当たり前だ。最初の仕事で学んだことといえば、半眠状態で山陽道を運転する技術と、少しでも時短をするためのエクセルマクロ術くらいだった。
案の定、壁にぶちあたる。
エレベーターの上座下座マナーも知らない僕は、部長を差し置いて奥の壁に背中を預けて乗っていたりした。当然怒られる。
それだけでない。もともとが礼儀に厳しい広告業界。これまで聞いたことのない作法やらが色々出て来ては、「そんなのも知らないのか?!」と呆れられまくった。
最初の会社ではチラシと店内POPばかりを作っていた僕は、東京の代理店営業としての業界知識も、全然足りてなかった。
クライアントや上司に言われたことの半分以上を理解できない。
手足をバタバタさせてきただけの、何も積み上げてきていない27歳の化けの皮がボロボロと剥がれていく。
仕事の足を引っ張るだけの僕に対して、周囲からの当たりはどんどん強くなる。もともと強固じゃなかった自信は簡単に折れてしまい、元に戻そうにも戻らない。完全な悪循環。
これまで一体何をして来たんだろう、とばかり考えるようになる。
適当に遠回りをしていれば、いつかなんとかなると思ったのか?
どうしてもっと早く真剣にならなかったのか?
少しづつ追い詰められていった。
人混みの電車に乗りたくない。駅のホームで同僚に会いたくない。会社から二つ先の駅まで歩いてから、電車に乗って帰った。
土日に全く気が休まらず、傷はどこも癒えないまま月曜が来る。心の負債は雪だるま式に増えていく。
このままじゃダメだ、と思った。立て直さないといけない。潰れる。
気を抜けば思考停止してしまいそうな半鬱状態の中で、必死に次の道を模索した。
そして開き直って「俺には営業は向いてない」と考えることにした。
優柔不断だし、繊細すぎるし、何より対人能力があまり高くない。逆に今までよくやってこられたな。
でも、「広告」まで捨てる気にはなれなかった。
広告のアイデアが生まれて形になっていく過程には、どんどん興味を持ち始めていた。
もともと文学部で、本を読んだり、ゲーム好きだったりと「コンテンツ人間」だった。営業ではなく、もっとコンテンツを考え出すところに近い側になれないか。
そして出てきた、広告プランナーという仕事。
縁あって希望に近い条件の仕事を得ることができた。雇用形態も契約ではなく正社員。全滅寸前まで追い込まれてから、ギリギリのところで「逃げる」コマンド成功、という感じだった。
20代も終わりにさしかかり、ようやっとまともにコマが進んだ気がした。
◆そして今
そして広告プランナーという職に就いて2年ほど。
落ち着きのなかった20代は、とうとう終わってしまった。もしくはようやく終わってくれた。
まだ大した結果は残せていないが、一人で黙々とアイデアを考えて企画書を作る仕事は、どうやら自分に合っているようだ。
なにより今の職種・職場は、いろんな体験をしてきたことを「引き出しの多い人間」として見てくれる。それが一番ありがたかった。
もちろん新卒から「この道一筋」という人たちには、全然敵わない。
でも「彷徨って遠回りして、いろんな世界を見てきた広告プランナー」というキャラクターに、興味を持ってくれる人がいる。それに自分自身が、この経歴の活かし方を少しずつ掴んできた気がする。
「最短距離をストレート」で生きることは、僕みたいな人間は人生何巡しても無理な気がする。でも、ストレートに進んで来た人たちには経験できないことを、迷ってきた人間はやっている、と思うようになってきた。
20代での遠回りや迷いが、じわりと自分の色になってきている。
ある知人が言ってくれた。
宝物のような言葉だった。
高級な和紙で何重にも包んで、桐だんすの奥にしまいこんでおきたいような言葉。タンスにゴンを添えて。
早くに人生の目標を設定できるんなら、それはそれに越したことはない。でも、人生の目標を無理やり捻り出しても、それはいつか自分を突き動かす力はなくなると思う。
それなら、行き当たりばったりで、なるようになれ!ともがいてみるのもいい。
こういうのはある程度の成功者が言わないと説得力がないかもしれないけど、散々に迷ってきた僕でも、「これはあんまり意味がなかったな」と思うような過去はない。
今に満足していようが、していまいが、通ってきた道、集めてきた材料でしか未来は作られないし、割とそれでちゃんとした「自分らしさ」になっていくような気がする。
今、コロナで世界そのものが大きな遠回りをしている。
その影響で、やろうとしていることができない人はたくさんいるでしょう。
今年新卒だったり、就活だったりのという人はなおさらかもしれない。
それでも、この遠回りも、いつかちゃんと味になる。
僕はそう考えます。