百歩蛇(ひゃっぽだ)『駐車場裏の汚ねえ紐』前編
1
尼さんの頭ほどのおおきな石。
そのそばには髭を蓄えた巨体の中年男性がたっている。
「今からこの石を動かすからね」
群集は固唾を飲んでそれを凝視。
気球にのった天麩羅屋、虚空より出現。
「天麩羅屋さんだ!」
群集はたちどころに中年男性の前から消える。
砂埃舞うなかひとりの少年だけがぽつねんと荒野に佇立。
中年男性は口を開く。
「ごらんのように意思(石)が動きました」
「爆ぜろ」
中年男性爆死。
少年はおおきな石を携え荒野を歩く。
少年の名は馬馬馬といった。
2
爆音は群集にも聞こえ、しかしいまだ砂埃を巻き上げ進むその中に足を止めるものが一人。
「悪い知らせだ。三十年前にも聞いたことがある。今日天麩羅をくうのはよそう」
彼の名はシゲミ。
止まったのはたばこの吸いすぎで肺がやられ息切れをおこしたからであったがなんでも自分の都合のいいように物事を解釈してしまう。そんなシゲミは天麩羅を別にくいたくはなかった。なんとなく群集についていっただけだった。シゲミ、荒野に一人で寝転がる。雨が降る。目に入る。目を瞑る。何も見えなくなる。もう周りの土は泥泥に変わってきたないし臭い。シゲミも臭い。
3
天麩羅屋の店内は陰気で油が壁のメニューやテーブルにこびりついていて茶色くしおれている。床もなんだかぬるぬるしていてしかも小上がりなので靴を脱がなければならない。
「脱ぐ?」
「俺は脱ぐ」
「じゃあ俺も脱ごう」
「あたしも」
下足箱が靴で一杯になる。カウンターでは二人の男女が会話。
「さっきスカートがめくれパンティーがもう少しのところで見えそうだったよ。気をつけて」
「次回そのようなことがあったらあなたの言葉をおもいだすわ」
「一見なんの変哲もないスカートだけど僕にはすごく蟲惑的だね。素材は何で出来てるの?」
「コットンよ」
「コットンだったとは知らなかった。牛蒡の天麩羅を頼む」
「あたしは鰺よ。塩もつけてね」
あいよ、と店主が声を出す。一方小上がりのほうではもう既に日本酒を飲んでいた。
「ついでに俺と結婚して幸せになろうぜ」
「誰にでも言ってるんでしょ? でもついでだったらいいわ。重婚しましょう」
「やったー」
「おいおいマジかよ。でもいつだって幸せな人を見るのはいいもんだなあ」
「子供には英会話を習得させたい。だから今のうちに天麩羅をたくさんたのんでちょっとずつ食べよう。なんだか高いしな」
「そっちのほうがお得な気がするわ」
「どうでもいいけどお前の靴下きれい」
「うれしい」
「アッ天麩羅がきた!」
直後全員毒死。
店主はまた気球に乗って虚空へと飛び立つ。
店主の名は塩りん。死体は空の上からぶん投げる。
4
いつも車を停めている駐車場。その裏に汚ねえ紐がおちていることを自分だけが知っている。それは幾歳月を重ねたかわからないほどにぼろぼろになっていてもともとは白かったはずが風雨に侵食されて薄緑色になったビニールの紐である。触れば手が汚れるし、途中で切れそうだし、とにかく真新しい駐車場にはふさわしくないのだ。管理者が拾ってすてればいいのだろうが、どうやらその紐の存在を知るのは自分ひとりのようだ。今日は雨で紐はずぶずぶに濡れている。臭そうだ。しかし、なぜ自分だけこの紐のために不快な思いをしなければならないのか。管理者に訴えても相手にされないような気がする。やはり自分が捨てるべきなのか。嫌だなあ。雨。また雨。紐。苔の中。
馬馬馬は腕の疲労に耐え切れず、石から手を離す。荒野には外灯がともる。
「お母さんは尼さんだったけど、鬼に強姦され僕が生まれた」
馬馬馬はひとりごとを漏らす。
「だけどそんな運命を僕はくやんでなんかいない」
石を食べる馬馬馬。半分くらいたべると腹は満たされた。
「ああ、特異体質だなあ」
「いくらかね?」
老紳士。下半身は丸出しだ。白い陰茎がビクビクと音を立てている。
「それは花崗岩じゃ。もっとも『か』を外せば……言いたいことはわかるね?」
「爆ぜろ」
響き渡る爆音と共に老紳士爆死。砂塵が血にこびりつき馬馬馬は赤茶けた色になった。
「これぞ鬼の血を引く者のなせる業。ああ、特異体質」
「お~い、助けてくれ~身体が臭いんだ~」
遠くで声がする。シゲミがやってきた。全裸だった。睾丸がぶらぶらとゆれている。
「俺、シゲミ。臭いぜ」
「風呂に入ろう」
ふたりはスーパー銭湯に行き、身体を洗った。ついでに服もコインランドリーで洗った。
5
車を玄関の前に停め、帰宅した。妻が三咲を抱いて出迎えた。三咲はアウアウと何語を発している。
「今日はカレーか?」
「そうよ。シーフードカレー」
「ふうん」
妻は三咲をあやしながらリビングへと戻っていった。
二階に上がり、ネクタイを外す。部屋着に着替える最中、自分の腹が鏡に映った。白い豚の死骸のように皮膚が弛み、蛍光灯の灯りが腹にいくつもの陰翳を浮かび上がらせた。自分も若くない。借家のこの家ももうすぐ出てあたらしくできた分譲マンションに引っ越す。三ヶ月前には三咲も生まれ、父親としての自覚も芽生えてきている。それなのになぜ自分はあの駐車場裏の汚ねえ紐のことばかり考えてしまうのか。
「もうお風呂わいたよ」
妻の声で一階に下りる。
風呂上がりに発泡酒を飲みながらおそるおそる妻に話しかける。
「あのさ」
「ん?」
「会社の駐車場の裏に汚ねえ紐が落ちてるんだよ」
「え?」
「それがどうも気になって仕方がなくてさ。こういうときどうしたらいいと思う?」
「へぇああああああああああ~」
三咲がベビーベッドの上で泣き始める。妻はスッと立ち上がりあやしにかかる。
「あなたまたしょうもないガラクタ集めてくるつもりでしょ? もう勘弁してよね」
妻は自分がその紐を拾ってくると思っているらしい。そんなことはありえない。だって汚ねえ紐の使い道なんてあるはずないじゃないか!
6
馬馬馬とシゲミはドブ板を開けると簡易ホテルが出現。三十円くらい支払ってドブの中で眠る二人の会話。
「人が爆ぜるのか?」
「僕は爆ぜさせることができます」
「俺もか?」
「できます」
「天麩羅をくっていたら君とは出会えなかった」
「なぜ石野郎をみてたんですか?」
「動かされたんだよ。石が動く前にこっちがね」
「じゃああの力はモノホンだったってことか……」
「爆ぜたのか?」
「鬼の子だから」
「仕方がない。口笛を吹けば少し楽になる」
「ピピピーピピーヒューヒューフフピーピーピーピーピピーヒューヒューヒュピー」
「そうだ、それでいい」
「なんの唄かわかりますか?」
「『肉林糞、嗚呼』?」
「惜しい。『メランコリニシティ』です」
「君は同性愛者かい?」
「いいえ」
「ならいいが」
「やっぱりここ臭いですね」
「人間が生み出すものはすべて臭いんだよ」
夜が明け、馬馬馬とシゲミは再びスーパー銭湯とコインランドリーに出奔。軽く別れの挨拶をしておたがいの家に帰った。
7
自分の書斎には海で拾った石ころ、オロナインの琺瑯看板、瓶詰めのキン消し、使用不能の蛇の目ミシン、カエサルの石膏像、音の出ないオルゴールなどが置かれていて、これはここに越してくる当初にはなかったもののはずだ。しかし今自分はこれらの観賞用としかいいようのないものをどこからか集めてきたのだ。そこに妻はあの駐車場裏の汚ねえ紐も加わると思い込んでいる。だがあれはゴミだ。風景の一部といってもいい。いや、これらのものも駐車場裏に落ちていたら風景の一部、単なるゴミかもしれないが……。
8
翌朝、会社に向かい、車を駐車場に停める。そしてコンクリート塀の後ろに回りこむとやはり紐はあり、汚かった。苔の中に白蛇の死骸のようによこたわっているそれは、雨に濡れ惨めさを増していた。十数秒見つめて社屋に向かった。
残業をこなし家に帰ると、妻も三咲も眠っていた。書斎で次のプレゼン用の資料を眺めているうちに机の上で沈むように眠った。
9
馬馬馬は仏壇に手をあわせた。尼僧である母の似顔絵が額縁に入れられおさめられている。馬馬馬は母の顔を知らない。もちろん鬼である父の顔も。だから想像でえがかれたそれは馬馬馬の絵心のなさも相まって稚拙そのものであった。しかも馬馬馬はこの家でなんとなくかわいそうな人間を演じているだけであって別にたいして母に愛着などはなかった。というよりも本来馬馬馬の母親は普通の専業主婦であり、父親は国家公務員で、名門進学校に入るもドロップアウト。ドラッグに嵌まりいつしかこの家にいた。馬馬馬は仏壇の前で屁をこくと、全裸になって女を待つ。現れたのは金髪のパーパパとかいう女で陰毛も金色に染めている。
「パーパパ。僕またお母さんの夢をみたよ」
「まあ、かわいそうな馬馬馬。さああたしで忘れなさい」
その時芳郎が来て、
「馬馬馬。リモコンどこ?」
「アア」
「馬馬馬。リモコンどこ?」
「モット」
「聞いてる馬馬馬? リモコンどこ?」
「ダメェダメェ」
「リモコンどこ?」
「イクゥ」
「りーもーこーんーどーこー?」
「テーブルの下の皮袋の中」
「ああ、アソコか。これでようやく献立がうかぶぜ」
パーパパ失神。馬馬馬はオルガズムに達しなかった。芳郎が作った若鶏の唐揚げ。みんなで食べた。味付けが濃かった。みんな寝た。馬馬馬は今夜も荒野へ。
10
シゲミは家に帰るか逡巡。家に帰れば血生臭い。荒野に戻れば腐葉土のにおいしかしない。どっちにしろにおいが自分を包むことに間違いはなく、家に帰ると砂を噛む。肝を舐める。帝王切開した妻・ヨウヨウの仕置きが待つ。
「あなたには価値がない」
「あたしの不幸はこの子にあなたの血が混じっていること」ヨウヨウの言葉——最近は汚物扱いされ、玄関で冷水をあびせられる。
「着替えをとりにもどるだけさ」その言葉、弱々しく。
暗い玄関に明るい影が一つ。ヨウヨウの影。肥え太り、上がり框に脂肪が溶け出している。
「ただいま」
「爆ぜろ」シゲミは爆ぜず、ゆっくりと靴を脱ぐ。ヨウヨウは俯いたまま動かない。
「着替えを、とりにきただけだ。ディスカには会わない」
「当たり前よ。着替えはピアノの上に」
「今日は冷水はないんだな」
「水道代の無駄よ」
着替えはナンプラーでべたべたになっていた。シゲミは着替えを持ってそそくさと立ち去る。ヨウヨウの脂肪に足をとられそうになりながら。向かうは荒野。腐葉土の世界。
11
朝、自分はちゃんとベッドで眠っていた。隣にもう妻の姿はなかった。夜中に無意識に入っていたのだろう。ふと無意識がこわくなった。妻の言葉を思い出す。あなたは紐をこの家に持ち帰る。
駐車場裏には変わらず紐が落ちている。コンクリート塀に回りこみ、紐を眺め、社屋へ向かうこの一分足らずの行為がいったいなんの意味を持つか自分にはわからない。かつてなんらかの用途に使われていたであろうこの紐。使われなければ風景の一部。しかし自分にはそうは見えなかった。紐はほかの誰が見ても紐と認識できる。問題はそこからだ。「で、これがどうしたの?紐じゃん。ゴミじゃん。それでいいじゃん」その大多数が持つであろう意見に反駁できる理由が自分にはないのだ。
昼食の時、妻が作った弁当を食べながら自分のデスクを眺める。妻と三咲の写真。仮面ライダー一号のフィギュア。印字された大量の紙。キーボードに手垢のついたパソコン。これらにはなにか物語性を感じる。自分が使わなくても、駐車場裏にあっても、風景の一部にはなりえない。写真には家族の時間が、フィギュアには普遍的なストーリーが、文字にはなにかしらの意味が、パソコンにはその使用した人のひととなりが、含蓄されている。自分の書斎にあるものだってそうだ。海で拾った石だって、自然が創りだした造形美に惹かれて拾ったのだ。しかしあの紐にはそういうものがない。どういう経緯であそこにおちているのかがまったくわからない。そしてなぜ自分があの汚ねえ紐のことばかりを考えているのかがわからない。仕事に集中しようとすればするほどあの紐が自分の脳裡をよぎる。苔の上に寝そべるあの姿を。
仕事の帰りにまた駐車場裏に紐を見にいった。辺りが暗くて何も見えなかった。
12
荒野の腐葉土はクヌギやナラといった広葉樹林の枯葉が集積されてできている。しかしそのような木々は皆無で、それを疑問に思う奴も皆無である。なぜなら荒野とはその存在すら怪しい、人間の屑の行き着く場所で、そこまでの道程は誰も知らない。気づいたらいるくらいに考えたらいい。そこで起こることに実害はなく、でたらめで適当で、そこに集まる奴はそれでよかった。それでなければ荒野にきて平然としていられない。実社会に適応できない人間はこの荒野をなんか都合の良いドラッグくらいにしか思っていなかった。
荒野は雨季が明け、「カブト祭り」の時期に入った。腐葉土から何万匹ものカブトムシがいっせいに羽化してきて荒野を飛び回るのである。荒野にくる人間はこの時期を一番嫌った。この荒野のカブトムシは吸血性で、重い羽音とともに近づいては強力な鉤爪で皮膚に絡みつき、尖った口で血をズルズル吸うのだ。しかも蚊同様血を吸われると痒く、噛まれた場合、まだ傷口から血が流れる中、痣のように青くなった患部をボリボリ掻くしかない。巨大な誘蛾灯の下には感電したカブトムシが馬糞のように落ちている。よく噛まれた連中が仕返しとばかりにまだ生きているそのカブトムシを踏みつけている光景が見られる。「カブト祭り」が終わると、荒野にくる人間はみな一様に「静かになったなあ」と言う。辺りにはカブトムシの死骸がそこかしこに転がっていて、踏むとバリッと良い音が鳴るので、敢えて踏む奴は結構いる。そうなると荒野の夏が終わる。
続きは、後編へ
https://note.mu/carnofsilver/n/n6efc0fdfadb3
百歩蛇の「あとがき」はこちら。作品を書いた動機などが書いてあります。