_表紙_ジャムおじさんを殺したい

百歩蛇(ひゃっぽだ)『ジャムおじさんを殺したい』④(完)


本編①、②、③はこちら。

本編①https://note.mu/carnofsilver/n/n95c1ef50fff1

本編②https://note.mu/carnofsilver/n/n197d4bfea2e3/edit 

本編③https://note.mu/carnofsilver/n/n1c29679214b1/edit


深夜、電話が鳴った。僕は病院へと向かった。医者と看護婦に囲まれて、妻は僕を待っていた。人工呼吸器をつけた妻は、呼吸する度に身体を持ち上げ、かろうじて息をしているようだった。僕はしっかりと妻の手を握っていた。あれだけ滑らかだった手はかさかさで、既に生気が無かった。やがて呼吸の間隔が大きくなり、また、静かになっていった。薄く目を開けた妻の目にはもう何も映っていないように思えた。すると妻は首を僕の方にもたげ、じっと僕を見つめた。はっきりと僕を見つめた。その無言の言葉の意味を理解した時、妻は事切れた。

「午前二時十二分、ご臨終です」

医者の声が遠くから聞こえた。不思議と涙は出なかった。だんだんと視界が狭くなった。

 もうどれくらい歩いているのだろう。少しだけ風が吹いている。僕たちはどこまでも続く真っ直ぐな道を歩いていた。周りには雪を被った平原が広がり、風が吹くと、積もった雪がさらさらと低空を舞った。

 ここでいい、と彼女が言った。鼠色の空と真っ白な地平。僕たちはそれを眺めていた。

寒いね。

うん。

本当に何も無いね。

うん。

でも春になれば花が咲くんでしょう?

そうだね。

なんか不思議だね、こんなところから命が生まれるなんて。

うん。

あたしたちの目に見えないところで色んなことが起きてるんだろうね。

うん。

でもその目に見えないことを全部知っちゃうと多分苦しいだろうね。

そうだろうね。

神様って大変だね。

うん。

やっぱりもう少し雪の中行ってみようか?

うん。

 僕たちは雪原の奥へと歩いて行った。

 気がつくとコンクリートの天井が見え、すぐにアンモニアのにおいがして、自分が留置所にいることが分かった。格子窓から光が差し込まないところを見ると、まだ夜は明けていないようだ。薄い布団にくるまって目を閉じる。妻のことばかり考える。

 いつか妻に尋ねたことがある。

「僕といるのは自分の快楽を満たすためなの?もし僕と同じような心神喪失者が近くにいたとしたら、僕の代わりとして君は何も思わずにその人と一緒に居られる?」

すると妻はぽろぽろと涙をこぼした。

「そんな訳ない。あなたじゃなきゃだめ。初めて屋上で会ったときからずっとあたしはあなたが好きなの。でも上手く言葉に出来なくて・・・・・・。だからマゾヒストとか一番人に言えないようなことを口走って・・・・・・。でも、それはあなただから言えたんだと思うの。あなたがいなくなったらきっともう身体にぽっかり穴が開いてしまう。あなたの代わりなんてどこにもいない。そんな意地悪な考えはもう捨ててよ・・・・・・」

僕はくしゃくしゃと泣きじゃくる妻を抱き寄せ、キスをした。塩辛い涙の味がした。月が綺麗な夜だった。

 病院以外で妻と過ごした日々を計算するとおよそ三ヶ月にも満たなかった。しかし、その期間は楽しいものだった。一緒に風呂に入ったり、クイズ番組を一緒に観て答えを言い合ったり、妻の作った料理を食べたり、セックスをしたり、普通の夫婦らしいことをしていたと思う。それもいつか遠い思い出として処理されていくのだろうか。留置所の床は冷たく、なかなか寝付くことが出来ない。赤い靄のようなものが網膜に張り付いている。その靄は楕円形をしていて視界の左隅に浮かんでいる。僕は浅い眠りに就こうとしていた。

ねえ、もっともっと向こうに行こうよ。

うん。

さく、さく、さく、さく、さく

足、冷たいね。

うん。

さく、さく、さく、さく、さく

だいぶ歩いたね。

うん。

ほら、最初の方の足跡もう見えない。

そうだね。

 朝、あくびをして目を覚ますと、赤い靄の部分に喪服を着た中年の男性と女性が立っていた。ちょうどニュースの手話通訳を見ているような感じだった。女性の方は茶雌の遺影を持ってこっちをじっと睨んでいる。男性も同じような目でこっちを睨み、やがてショットガンを手に取った。弾薬を込める手つきはぎこちなく、何度も弾を落としていた。僕はとてもいらいらしたので、その二人を目殺した。血飛沫は赤い靄に吸い込まれていった。次は大学生と思しき男女が大人数で靄の中に押しかけた。何かを叫び、罵詈雑言を浴びせている。泣いているものもいる。しかし、僕にはそれが一切聞こえない。結局彼らは僕の手で一人残らず目殺された。

 色々な人間が赤い靄の前に現れては僕に目殺されていく。どうやら僕がかつて目殺した人間の遺族関係者のようだ。無音の中にショットガンのド、という音だけが響く。それが楽しい。僕はこの大量目殺の遂行に夢中になった。

 若い刑事が僕の腹を殴る。それを諭すように中年の刑事が何かを喋る。若い刑事はまた激昂して腹を殴る。それでも僕はショットガンを離さない。お前なんか一瞬で柘榴に出来る。その自信から作られる笑みが刑事の癪に触るようで、唾を飛ばして僕を罵っている。

「十人    首を 女   殺して  シャバに  頭おかし  俺は   絶対に  せない」

駄目だ、きれぎれにしか聞こえない。今、鼻の大きな老婆を目殺した。

 彼女はある地点でその足を止め、僕の方を向いた。僕は前から言おうと思っていたことを口にした。

「結婚しよう」

彼女はノコギリを取り出して言った。

「じゃあ、これであたしの首を切ってくれる?」

 今思えばおかしなプロポーズだったな、と幼女を目殺しながら思った。白いうなじからどんどんと血が噴き出していくあの光景は素晴らしかった。切断面から湯気が立っていて、僕はその首を持って帰った。僕は妻の願いを叶え、いや、叶え続け、今ここにいるのだと思う。

 深夜、赤い靄に工藤さんが出て来た。目殺した。

 明け方、今度は誉田さんが出て来た。目殺した。もう止まらなくなっていた。

 髪の毛を掴まれて引き摺り回されている間も、目殺を止めることはなかった。既にお前は昨日目殺しているんだからな。赤い靄は視界の中で拡大し、人間がひっきりなしに現れ、ついに「日本」が現れた。僕はニヤリと笑って「日本」を吹き飛ばした。その後も「アメリカ」「中国」「タイ」「エルサルバドル」などを目殺していった僕はいつしか、妻の登場を願っていた。妻が出たら銃を下ろそう。僕はその言葉を自分に言い聞かせ、汗ばんだ手でショットガンを握り直した。

 赤い靄は視界の三分の二を覆い、地球は既に目殺されて、僕は宇宙に銃口を向けていた。無我夢中だった。空間がひしゃげてばらばらになっていく様と、独房の壁とのバランスがかろうじてリアリティを保てている。宇宙はどこまでも広く、どこに妻がいるのかも分からなかったが、きっと最後には現れるだろうと信じてショットガンの引き金を引いていった。

 冬の日差しが格子窓から漏れている。刑事たちの言うことは相変わらずきれぎれにしか聞こえず、今日も腹を殴られていた。すると赤い靄に「この世の全て」が現れた。そこにはきっと妻も含まれているはずだ。この世からもう解放してあげよう。僕は引き金を引いた。辺りが灰色に包まれた。

 目の前には妻の首を持った僕がいた。

「疲れただろう?」

「うん。へとへとだ」

「これからどうする?もうこの世には何も無いぞ」

「お前と妻がいるじゃないか」

「まあ、そうか。妻はもうこんな姿だけど」

「妻がいなかったらこんなところには来なかったろうな」

「そうだな。ここは究極の流刑地みたいなもんだ」

「なあ、お前を殺したら自殺になるのかな?」

「分からない」

「僕、人間を殺したっていう実感がなくて、結局いつも自分を殺している気分になるんだ」

「でもそれじゃあ駄目なんだよな。自分を殺す事と自殺は違うからな」

「だから多分お前がいるんだな。見せしめみたいに」

「命はどんな時代でも祝福されなきゃいけないと思うよ」

「だろうな。僕は僕で罪を償うことにする。ここで生活をするのがお前の罰だ」

「僕たちなりの良心だな」

僕は銃口を口に咥え、足の指を引き金の上に乗せた。銃身に両手を添えたとき、それは祈りの姿にも見えただろう。ド、と音がしてみるみる内に視界は若い刑事に埋め尽くされていった。

「刑事さん」

僕は言った。

「たった今世界が終わりましたよ」

若い刑事は僕の顔面を殴った。

「八津井さん、俺こいつ殺したいですよ」

「やめとけ。頭がおかしいんだ」

 妻が最後に目で言った言葉

「死なないで」

・・・・・・僕はその約束を果たせたのだろうか?自分自身にショットガンを放った時・・・・・・いや、違う。雪原で妻の首を切ったあの日から、僕は死んでいるような気がする。血で染まった大地からは今もきっと新しい命が死に向かって生きている。僕は世界を殺した。みんな死んだはずだ。しかし、この「僕」という意識が消えない。いつまで経っても消えない。冷えた独房の中で僕はとりあえず笑顔の練習をし始めた。口角を上げ、目を細める。上手く出来ているかどうかは分からない。僕は灰色の壁に向かって微笑む。何度も。何度も。

 最近家の前にパンを置いていく人がいるらしく、朝玄関の戸を開けると必ず焼いたパンが二斤も白い皿の上に乗っかっているのだ。嫌がらせなのか何なのか、パンの表面には「命」と焼き目がついている。一度食べてみたがとても美味しく、それ以来朝は「命」のパンを食べることにしている。ただいかんせん量が多いので、必然的に残してしまい、昼食も夕食も「命」のパンを食べる羽目になってしまう。捨てたらいいのだろうが、食べ物を残すということが出来ず、意地になって「命」のパンを食らう毎日だ。いつもジャムを塗って食べているので、頻繁にジャムを買いにスーパーに行く。おかげで近所の子供からはジャムおじさんと呼ばれるようになった。今年の十月で僕は三十二歳になる。

                               おわり


最後までお読み頂き、ありがとうございました。

作者・百歩蛇の作品への思いを書いたあとがきは、

こちらから。

あとがき

https://note.mu/carnofsilver/n/n6f6196143566



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