百歩蛇(ひゃっぽだ)『駐車場裏の汚ねえ紐』後編
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自分はいつものように(という言葉が正しくなっていることに驚くが)紐をみつめていた。ほんの十数秒のことだったと思うが、肩をたたかれた。
「オメ、そごでなにやっちゃんだ?」上司の木村だった。
「あ、いえ。ちょっと考えごとを……」
「なんがじーっと見でらんでねえが? ん? 紐あるな。オメ、紐見でなにしてらんだ?」
「いえ、なんにもしてないです。本当に考えごとをしてただけです」
「んだばいいばってや。どごだかんださあさぐなや」
「はい、すいません」
不覚だった。紐を他人に認識された。もう木村にはあそこに紐があることが知られてしまった。これで紐をどこかに移動させることもできなくなってしまう。いや、その必要はないはずなのだが……。仕事のあいだも木村のことが気になって仕方がなかった。いつ自分が紐を見ていたと他言されてもおかしくはない。そうなればもう変人扱いをうけるに違いない。紐を木村に意識させないこと。早く海馬から忘却させること。日々が流れるのを待つしかなかった。
それから自分は進んで残業を引き受けるようになった。とにかく紐の存在を忘れたい。仕事に打ち込めば忘れるのではないかと期待したが、残業終わりの足は自然と駐車場裏へと向かうのであった。暗闇の中、紐の姿はまったく確認できない。だが、なぜかそこに足を運ぶことで自然とこころは晴れるのだった。そうした生活を家族はよく思わなかった。妻は不機嫌な態度をとることが多くなり、三咲の夜泣きはひどく、睡眠時間は削られていった。
「いっそ紐がなくなればいいのに」
木村に肩をたたかれた日からちょうど一ヶ月。自分の頭の中にこんな言葉がうかんだ。そうだ、なんでこんな簡単なことを考えつかなかったんだ。紐ひとつで家庭をおろそかにするところだった。定時で仕事をきりあげ、自分は駐車場裏へ向かい、携帯のライトで紐を照らした。そして紐を摘みあげた。自分は近くのゴミ収集所まで歩くとそこに紐を投げ入れた。外灯の光でも紐はくすんで汚れいて、紐かどうかすらもうわからなかった。
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馬馬馬がカブトムシの死骸を踏みしめて歩く。するとパーパパがひとりで人生ゲームをやっていた。
「パーパパ、なぜここに……」
「それよりもこの境遇よ。あたしはいま不動産を根こそぎ持ってかれたの」
「そうか。気の毒に」
「あなたには鬼の血が流れている。あたしには不幸になる血が流れてるのね、きっと」
「生きたカブトムシには会ったか?」
「ええ。おかげで血塗れで痣だらけよ」
「見せてくれるかい?」
「構わないわ」
それから二人は交接した。崩れ落ちる家族を模したプラスチックの玩具。舞うおもちゃの札束。これが本物だったらどれだけ爽快だろう。
それなりに汗をかいた二人は土でべとべとになった身体を洗いにスーパー銭湯へと向かった。湯上りのパーパパに馬馬馬は話しかける。
「ところでどうやってここに来れたんだ?」
「気づいたらいたのよ」
「そうか。僕もそうだったよ」
「あなたはいつからここに?」
「忘れたよ。とっくの昔さ」
「芳郎とリズがあの家を出ていったわ」
「わかった」
二人は別れた。なんとなくだ。
パーパパは荒野について間もない頃、シゲミに会った。臭い男。それが第一印象だった。しかし自分の身体を褒められるうちに心を許し、今ではその臭ささえいとおしい。いつのときか、シゲミは家族の話をした。
「ヨウヨウは処女だ。断言できる。なにせ俺が嗅いだんだ。あれは処女のにおいだ。なのに赤ん坊を孕んだ。処女のまんまでだ。マリア様だ。脂肪まみれの。ディスカが産まれたとき、俺はここにいた。ヨウヨウはそれを未だに根にもってる。ディスカは双子だ。双子だけど身体はひとつなんだ。シャム双生児とかじゃない。もちろん二重人格でもない。一人の人間に二人いる。絡み合ってるんだな。俺は区別がつかないがヨウヨウがいうから間違いないんだ。まだ赤ん坊だからな。それに俺の子かもわからない。この世に神様がいるのならそいつらの悪戯につき合わせられているだけさ。俺は不幸でもなんでもない。ただ選ばれたってだけなんだ……」
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不逞。不逞。他のゴミはきれいさっぱりなくなっているというのに、あの汚ねえ紐だけは卵の殻やペットボトルのキャップとともによこたわっている。これはもうゴミでもないのか? ゴミ袋に入っていないとゴミとして扱われないということなのか?
どのくらいゴミ捨て場に佇立していたかわからないが、その日自分は会社を無断欠勤した。携帯が何度も鳴り、妻からも電話がきたがすべて無視した。ずっと紐を見ていた。
やがて雨が降り出した。アスファルトが濡れ、マーガリンのようなにおいがする。ゴミ捨て場から臭気が漏れ、しかし自分は傘もささずに濡れていた。すぐ横にパトカーが停まった。「すいません、ちょっといいですか?」自分はぼんやりと声のするほうを向いた。
「通報があったもんでこごさきたんだけど、あんたなにやっちゃんだ?」
「紐を、見てたんです」
「紐?」
「紐はゴミじゃなかったんです」ピリリリリ、と携帯が鳴る。
「大丈夫だが? 一回交番まで来てけねが?」
ピリリリリ、ピリリリリ
「もう大丈夫です。ほおっておいてください」
ピリリリリ、ピリリリリ
「携帯鳴ってらよ」
ピリリリリ、ピリリリリ
「拾います。すいませんでした」
ピリリリリ、ピリリリリ……
自分は警官から傘を貰い、紐を掴んで会社に向かった。カンカンに怒った上司が水槽の中にいるようで現実味がなかった。家に帰り、心配する妻も笑う三咲もまた水槽の中だった。紐は書斎の机の上にとりあえず置いた。妻の予言が当たってしまったという現実は霧散して、自分のなにかが紐に溶け出したように愛着がわいた。翌日は仕事が休みだったので家族でドライブに出かけた。うまく笑えていたと思う。
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荒野は冬になると「決算」と呼ばれるものが一斉におこなわれる。「自分がいちばん大事にしているものをもってくる」というもので、荒野に集まる連中は人間の屑ばかりなので人糞や生ゴミなどをもっていくのが通例なのだが、ごく稀に本当に価値のあるものをもってくる者もいてそいつは二度と荒野には足を踏み入れることができなくなる。見える者には見える。見えない者には見えない。荒野は色盲検査みたいな要素がある。
馬馬馬は自分の陰毛を一房もってきた。パーパパは目脂をもってきた。シゲミは自分の子供・ディスカをもってきた。「だって一番大事なもんだろう? うちにはこれしかないんだ」シゲミはいつしか薔薇のにおいがしていた。
「爆ぜろ」
誰かがそう言った。シゲミ、爆死。しかし、ここは荒野。実体は死んではいない。ここでの存在が消失しただけだ。荒野の真ん中で人糞や生ゴミやその他無用の産物と共にディスカが赤い火のように泣いている。誰一人としてもうその中に興味はなかった。
シゲミの実体は馬馬馬やパーパパの暮らす家の前にあった。
「殺してやる……全員だ!」
包丁を握る手からは大量の汗が滲んでいる。深夜二時。シゲミは予告どおり馬馬馬やパーパパをはじめとする男女五人を殺害した。馬鹿なパーパパが一度シゲミを荒野から家に連れ込んで交わったのだ。
荒野で実体のない者は「ネイティブ」と呼ばれ、いろいろな管理運営を任されることになり、非常に面倒くさい。馬馬馬とパーパパは翌日の早朝からドブさらいをすることになってシゲミを呪った。そして二人はディスカの存在を思い出すのであった。
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福井に転属が決まった。妻にそのことを告げると、別段驚くでもなく、「福井ってなにが名物だったかしら」などといって台所に向かった。この家も借家なのだから手放しても惜しくはないということか。
ホームセンターから段ボールを買って少しずつ荷物を詰めはじめた。大家さんには既に話をしていて今月中には出ていくということで了承を得た。書斎に入り、鍵を閉める。机の引き出しから紐を取り出す。
事実上のクビだった。紐を拾ったあの日から仕事の成績がめっきり落ち、しかも反省の色がないとのことだった。「オメ、その顔だば相手先さも気味悪がられるや」と木村に言われた。
紐を首に巻いてみる。がさついた感覚が背筋を走る。少し土と苔のにおいがした。
「あなた、少しずつでいいからガラクタ捨てなさいよ。今度はここより狭いんだから」
わかった、と喉の奥で頷き、自分は紐を首から解き、再び荷物をまとめはじめた。
自分のために送別会がひらかれた。ここに来て三年余り。まさかこんな会をひらいてくれるとはおもってもみなかった。部長が乾杯の音頭をとり、それからざわめきがはじまった。経理の女の子や、後輩たちが、ビール瓶片手に自分のところへやってくる。
「先輩、行っちゃうんですね。いろいろ勉強さなりました」
「まだこうして飲みましょうね」
それぞれ言葉をもってやってくる。しかしもう自分には風景の一部でしかなかった。
酔いが回ってきて二次会の途中でタクシーを拾い、家に帰った。家にはまだ灯りがついていた。玄関を開け、リビングに入ると妻が骨のように見えた。テーブルの上に覆いかぶさって寝ているだけだったのだが。
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馬馬馬とパーパパは臭気にまみれた荒野の真ん中に立っている。そこには瀕死の赤ん坊・ディスカの姿があった。
「こいつを殺せばきっと気が晴れるぜ」
「あたしもそうおもうわ」
馬馬馬はディスカの腹を靴で踏みつけた。ドム、という音がしてディスカは目覚めた。
「ディス、カ。ディス、カ」
「なんかこれすごいおもしろい」
「あたしもやりたい」
パーパパもディスカの腹を踏みつけた。ドム、ドム、ドム、ドム、とそれはやがて四つ打ちのリズムになり、ハウスミュージックへと変貌した。
「ディス、カ、ディス、カ、ディス、カ、ディス、カ」
「フォー」ドム、ドム、ドム、ドム
「ディス、カ、ディス、カ、ディス、カ、ディス、カ」
「サイコー」ドム、ドム、ドム、ドム
「ディス、カ、ディス、カ、ディス、カ、ディス、カ」二人とも全裸で踊る。
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引越し業者が来て、荷物を運んで立ち去った。妻と三咲は先に飛行機で福井まで向かった。自分は高速を乗り継いで行く予定だ。がらんとした家の中をしばらく探索した後、風呂場の排気口に紐をしのびこませた。鍵を掛け、大家さんにそれを渡す。車の中で軽く飯を食った後、車を発進させた。国道に出て、さっきまで自分がいた地区が見渡せた。なんてことのない、普通の風景だ。
「おおい、竜巻だ!竜巻がくるぞ!」
そんな声が辺りにこだまする。馬鹿共が竜巻に飲まれる。誰かが拾った汚ねえ紐が舞う。そこは風景の革命。あらゆる風景を一変させてしまう。荒野も、四つ打ちのリズムも、築年数二十年の借家も、汚ねえ紐も、全てが平等に竜巻の中へ。
「ディス、カ、ディス、カ、ディス、カ、ディス、カ」
「アハハ、アハハ。これからどうする?」
「ディス、カ、ディス、カ、ディス、カ、ディス、カ」
「もうどうでもいいや」
「ディス、カ、ディス、カ、ディス、カ、ディス、カ」
この竜巻の中に駐車場裏の汚ねえ紐があることを誰もしらない。車は荒野の中をひた走っているが、自分はそれに気づいていない。今、紐が消える。
消えた。
おわり
最後までお読み頂き、ありがとうございます。
百歩蛇の「あとがき」はこちら。作品を書いた動機などが書いてあります。
https://note.mu/carnofsilver/n/n53493010c5cb