![_表紙_ジャムおじさんを殺したい](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/5909183/rectangle_large_6510e3b8ef093eed9ab87531b966ee1f.jpg?width=1200)
百歩蛇(ひゃっぽだ)『ジャムおじさんを殺したい』③
本編①、②はこちら。
本編①https://note.mu/carnofsilver/n/n95c1ef50fff1
本編②https://note.mu/carnofsilver/n/n197d4bfea2e3/edit
僕は彼女の病室にいた。彼女は点滴を打たれ、拘束ベルトに繋がれて眠っていた。僕は彼女の顔を近づいて見た。黒く艶やかな長い髪からは乳脂の香りがした。頬を触ると、まるで何か白磁器のようにさらさらとしてきめが細かく、いつまでも触っていたかった。僕は彼女の左腕をこっそりと覗いた。手首に白く光る傷が五本。まだ赤黒い傷が一本。それらは一定の間隔で平行に並んでいて、何かを記録した石盤のようだった。彼女の寝息が聞こえる。この部屋はとても静かだ。僕はメモを置いて部屋を出た。
「今度はちゃんと上を見て」
その日は大きな雨粒がぱらついていて、いつも見かける喫煙者の姿は無かった。僕は唇に滴る雨粒を舐めながら彼女を待った。中庭を白いビニール傘がうろうろしている。傘の下から彼女の顔が覗いた。僕は彼女に手を振ると、彼女は何かを叫び、僕はそれが聞き取れず、彼女はその場からいなくなった。逃げられたと思った。しばらく雨に打たれていて、身体が冷えたから病室に戻ろうとすると、屋上の扉がバンッと鳴って彼女が現れた。
「あなた、人殺したことある人でしょ?」
彼女の目は輝いていた。
「あたし、生まれつき脳に異常があって、普通の人が痛いと感じる感覚が全部気持ち良いって感じちゃうの。だから自傷癖があって、とにかく自分を傷つけるの。でも他人に傷つけられるともっと気持ち良いの。身体の芯がぼうっとして。マゾヒストって言ったらそれまでだけど。だからもしまた人を殺したくなったらあたしを殺して欲しい。なるべく残虐な方法で。どうせ罪にならないんでしょ?あなたは心神喪失状態にあるんだから」
堰を切ったように喋る彼女の、きょろきょろと動く大きな目を僕は見ていた。背は病室で見たときよりも小さく感じた。僕はきっとこの人の事が好きになると思った。
「じゃあ、いつもそばにいてほしい」
それが結果的にプロポーズの言葉になった。
妻の容態が急変したと病院から電話があり、僕はタクシーで山の中の病院に向かっていた。
精密検査の結果、全身に癌が転移していて、こちらとしましてはもう手の施しようがありません。余命はもって一ヶ月でしょう。本人には既に伝えてあります。覚悟して下さい。
妻がどんよりとした目でこっちを見ている。
「とても気持ちが良いの。身体のあちこちがギリギリして」
土色をした妻の顔を優しく撫でた。
「殺してほしい?」
僕は尋ねた。妻は言った。
「殺されるの、もう、疲れちゃった」
帰り道、一人県道を歩く。何度も何度も車のライトに照らされて、その度に
「お前のせいだ!」
と言われている気になり、下ばかり向いていた。北風が吹き、辺りは雪化粧をしていていつの間にかもう季節は冬になってしまっていた。ふと左を見ると、田圃の向こうに山脈が黒く見えた。その上には巨大な雲が幾重にも折り重なって浮かんでいた。何かとてつもなく大きなものが僕たちの周りを回っている。ぐるぐると音を立てて。
家にいると押し潰されそうな感覚がして外に出た。向かい風で息を切らしながら自転車を漕ぐ。バイパスを抜け、町の中心地から少し離れた文化センターにそれとなく入った。正面玄関に書道コンクールで入選した小中学生の習字がパネルに展示されていた。「しぜん」や「希望」など、白い半紙に力強い筆致で書かれたそれらの黒い文字群を、僕は、ああ、と眺めた。白と黒。光と闇。相反するものが決して交わることなく存在する。文字は黒い光に見えた。紙は白い闇に見えた。その二つが交じり合い、漠たる灰色に変わる時、命が終わるのだ。一人の子供とその母親が、作品の前で記念撮影をしている。僕はそいつらを目殺して、泣きながら自動ドアを出た。もうあの時から既にレールは敷かれていたんだ。妻から貰った手紙の事を思い出していた。
屋上で
「いつもそばにいてほしい」
と言ってから、彼女は自由時間を僕と過ごすようになった。特に何を喋るわけでもなく、焼却炉から昇る煙を見ていたり、遺体安置室で死人の顔を見ていたりした。もちろん彼女は僕に暴力的な行為を要求することもあったけど、そんな時は大人しく看護婦さんを呼んだ。連れられていく彼女は不満そうな顔をしていたが、ここはそういう病気を治療する場所だから仕方がないと思っていた。しかし、やっぱり僕も物足りなかった。彼女とはもっと深い関係になりたかった。魂と魂が融合して燃え上がるような、そんな関係に。
梅雨が来て、じめっと生温かい風が吹きつけてくる。潮のにおいも、いつにも増して湿っているように思えた。僕たちは屋上で鈍色の海を眺めていた。小さな白波が時折パッと出ては消え、出ては消え、かろうじて海が作用しているという信号のようだった。
家にいた頃カメを飼ってたの。うん。元気なカメでよく脱走してた。うん。いつも水槽の隅の所でばたばたしてるからきっと狭いんだろうなって思って。うん。だからペットショップに行って一番大きな水槽を買って放したの。うん。でも結果は同じだった。その水槽の一番隅でばたばたしてた。ねえ、結局どこまで行ってもあたし達って閉じ込められてる気がしない?いつか。え?いつか本当に何にも無いところに行ってみよう。それでも閉じ込められてると感じたら帰ろう。抜け出せたと感じたらどうするの?知らないよ。僕たちは笑った。
次の日、病室のドアに紙が挟まっていた。中を開いてみると、薄い灰色の墨汁で大きな円が描かれていて、その中には二人の人間が収まっていた。一番下にはメモが書かれていた。
「これでも悪くないよね?」
その絵は単純で、しかし確実に僕たちの将来を予見していたのだ。既に陽が落ちてきていた。バイパスには休日の車がきれぎれに走っている。
あの子は小さい頃
「いつも神様が見てるから」
って言って悪い事をしたら両手を組んで
「神様ごめんなさい」
って謝ってたんです。みんなが見ている所でも、一人の時でも、目を閉じて神様に祈るんです。あれはあの子が幼稚園に行く前のことでした。その日はとても暑い日で、居間にクーラーをつけて私はあの子と一緒にテレビを観ていたんです。昼になって、私は食事の準備をしようと台所に立ちました。冷蔵庫からあの子が好きなグラタンを見つけたので、電子レンジで温めることにしました。すると突然バチンという音がして全ての電化製品の電源が消えました。あの子は何が起こったのか分からずに泣き始めました。私はあの子に近づいて
「今直すから大丈夫だよ」
と言って宥めました。ブレーカーを見てみると、異常はありませんでした。もしやと思いカバーを開けると、ヒューズが千切れていました。私は戸棚の中からヒューズの替えを探しましたが見つかりませんでした。あの子を置いて外に出るわけにもいかず、息子の仕事先に電話をしてヒューズを買ってくるよう頼み、二人で息子の帰りを待つ事にしました。クーラーの冷気がだんだんと逃げて行き、あの子の額には汗が滲み始めていました。私もスーパーのチラシで自分を扇ぎ、暑さをしのいでいました。陽もだいぶ傾いた頃、私は本来の目的を思い出し、あの子におなかが減ってないか聞くと、アイスが食べたいと言いました。冷凍室を開けると、中のものは既に溶け始めていて、アイスはどろりとなって庫内にへばりついていました。それを見たあの子は
「みんな死んでる」
と言って泣き始めたんです。
「これはただ溶けただけだよ」
と言っても
「みんな死んでる」
「みんな死んでる」
と言って泣き止まないんです。夕方、息子が帰って来て、家に電気が点いても、あの子はぶつぶつと何かを呟きながら両手を合わせていました。昔から不思議な子でした。
朝のラジオ体操が終わった後、誉田さんに呼び出された。
「今朝、歌丸が死んだよ」
「ああ、フトアゴヒゲトカゲの」
「うん。餌食わなくなってたろ?」
「はい、コオロギ千切ってあげてたんですけど、最近は全然」
「そうだろうな。もう最期の方は口開けて舌出してたよ」
「そうですか。残念です」
「トカゲって瞼があるだろ?ずっと半分開いたまんまなんだよ。やっぱり何か見えてるんだな、死ぬ間際って。全然どこ見てるか分からないけど。そしたらいきなりパッと目ぇ開いたんだよ。こっちを見てた。それで事切れた。何か言おうとしてたのかもな。『ありがとう』とか『こんなところにずっと閉じ込めやがって』とかさ」
「そうかもしれないですね」
「ちょっと埋めるの手伝ってくれ」
花壇にシャベルで穴を掘って歌丸をその中にそっと置いた。
「やっぱり日本の生き物じゃねえな。こんな訳分からんところで死ぬなんて思わなかっただろうな。悪いな」
誉田さんは歌丸に土を被せてそう言った。
膝を地面につき、手を組んで祈っていると、
「キリスト教徒だったっけ?」
と言われた。
「小さい頃からの癖なんです」
お父さんには妻を紹介した。その時にはもう入籍を済ませていたので、報告という形になったが。お父さんはきょろきょろと落ち着かないように妻を見て、
「よろしくお願いします」
とだけ言って店の仕込みを始めた。もう腕の筋肉が落ちてきていて、白い作業着から伸びるそれは、子供の頃から見てきたお父さんのものとは違い、頼りなく見えた。このままお父さんを一人にしていいのかと思ったのを覚えている。
帰り際にお父さんは僕たちを呼び止め、
「うちの息子はこれを食って育ったんだ」
と笑いながら出来たてのカツサンドを渡した。それがお父さんを見た最後だった。
実家の近くの公園に寄り、二人でカツサンドを食べていると、妻が言った。
昔近所に美味しいカツサンドを出すお肉屋さんがあって、お母さんの買い物帰りによく寄って買ってもらってたんだけど、そこのカツサンドとお義父さんのカツサンドの味がすごく似てる。でもそこの店長さんとお義父さんは似てなかったな。
僕も昔ピンクのジャージを着た女の子がよく店に来てたのを覚えてる。同い年くらいの女の子。でも全然君に似てないよ。
あたし子供の頃よくピンクのジャージ着てたよ。
そうなの?なんか不思議だね、運命の出会いに似てて全然違う。
そうだね。
僕たちは包み紙をごみ箱に捨てて駅に向かった。じきに電車が来てあっという間に僕の生まれ育った場所は見えなくなってしまった。
退院の前日は雪が降っていた。僕たちは病室をこっそりと抜け出して、非常階段に腰を下ろし寄り添っていた。
あたしも一月になったら一時退院できるから。
うん。
その時に一緒に行こう。
どこに?
前言ってた本当に何も無いところ。
じゃあ富良野かな。
行った事あるの?
前に家族と行った。
へえ。
あの時は夏だったからラベンダーとか花が咲いてたけど、冬に行ったら多分何にも無いところだと思う。
じゃあお金貯めないとね。
僕が全部払うよ。
いいよ、あたしもまだお年玉残ってるから。
うん、分かった。割り勘で行こう。
楽しみだね。
うん。
その日の夜はこうして終わった。
朝、担当医と精神保健福祉士の人間が玄関まで来て、僕に握手を求めた。誉田さんが既に車を降りてこっちに向かってきていた。久しぶりに会ったら、額がだいぶ広くなっていた。
「俺、ついにハゲてきたよ」
と笑っていた。車に荷物を積め、病院を後にする。助手席でいつまでも病院の方を見ていると
「女でも出来たか?」
と誉田さんが言ったので、僕はびっくりして
「ひぅ!」
と変な声を出した。誉田さんはにやにやして
「まあ、ゆっくりやれや」
とそれっきり何も言わなかった。潮のにおいがだんだんと遠ざかる。それでもまた彼女に会える。ひとりでに笑みがこぼれていった。
何も無いところに行って、それから・・・・・・
本編④(完)へ。
https://note.mu/carnofsilver/n/na3491e5a67a9
あとがきは、こちら。(先行公開中)
https://note.mu/carnofsilver/n/n6f6196143566