真剣な僕が自分を弱くないと知った話
久しぶりのnoteになった。
最近noteへの熱が少し覚めてるんだなと感じる。
読むのも書くのも減った。
別にそれがなんなんだって感じ。
好きな時に好きな温度で好きなものを書くことを今は優先したいなって思います。
また料理も書きたいとは思ってるのでよろしくお願いします。
最近は読書量が増えてて、特に「子どもの」ってつく本を積極的に読んでます。
最近読んでるのはこちら。
シンプルな子供の質問に4人の大人が答える本。
すごくシンプルな質問だから自分も考えさせられてしまう本です。
僕はずっと自分は弱いと思って生きてきた。
すごく臆病で、プライドが高くて、それも自分を守るためだと思っていた。
でも先日そうじゃないんだと気づいた。
僕はある側面でとても負けん気が強い所がある。
負けるのが大嫌いだ。
マウントを取られるなんて持ってのほか。
ふざけるなと思ってしまう。
そんな僕だが、幼いころから両親や親族を中心に「あんたは負けん気がない」と言われ続けてきた。
そうか。自分は負けん気がないんだ。と幼い僕は信じていた。
幼稚園の頃いじめられる事もあったりして、「そうか。僕は弱い存在なんだ」と僕はどんどん自信を失っていった。
そんなまま大人になった。
でも最近それはただの洗脳だったと気づいた。
結局、僕は牙を抜かれていたんだなとわかった。
別にその牙で誰かに噛みつこうとは思っていない。
ただ元々牙がない。と思って生きるのはそれなりに辛いものがある。
もう一つ気づいたことがある。
僕はストイックらしい。
これは薄々気づいていたのだが最近より明確になった。
僕はゆるくというのが苦手だ。
やりすぎないということができない。
「やる気のある奴は去れ!」
というタモリさんの言葉にガッツリ当てはまるなと思う。
だからこれが世の中的に受け入れられなかったり、めんどくさいと思われる事もわかっている。
ただこれは完璧主義とは少し違うと思っている。
準備をちゃんとしたいと思う。
それは例えば仕事でも、事前に出来る限りの準備をしたいと思う。
それが本番当日役に立つかどうかは対して問題ではない。
何故なら、本番というのは必ず予想外のことが起こる。
準備をせずに、それらに対応出来る事もあるかもしれないがそれはラッキーであり運でしかない。
だから僕は準備をして、本番はその準備をしたという余裕を持って自由になって物事に臨みたい。
昨今「ゆるく」という言葉が流行っている。
それも一つだと思うが、「ゆるく」ないことはそんなにいけないことだろうかと思う。
「やりすぎない」
「ゆるく」
「脱力」
これらは誰の基準なのだろうか?
これらの言葉には主語がない。
友人の日本語教師に「日本語は主語がなくても通じるから省きがちなんだよ」という話を聞いた時にすごくハッとした。
なるほど。たしかに日本語は主語がないことが多いなと。
ゆるく、やりすぎず、脱力して生きるのもいいと思う。
でもそれは正しい努力を正しい方向で正しい量重ねてきた人たちだけが使っていい言葉だと思う。
大好きな中村勘三郎さんの言葉で、
「型があってこその型破り」
という言葉がある。
結局、血が滲むほどの練習して失敗して、試行錯誤を繰り返して、やっと「型」を身につけて、はじめて脱力というものができるんだと思う。
それを今の自分でもできるような低い目標に切り替えて、「もっと肩の力を抜いて」などと言われると悲しくなる。
僕は変化を求める努力をして、やっと現状維持できるものだと思っている。
なので、自分で成長したと実感できるなんてことは本当に稀だと思っている。
読み返すとすごい昭和っぽい意見。
それでも本当に僕はそう思っているので、令和の時代でやっぱり生きづらかったりする。
ただこれが年上でも意見が合わないことが多々あるのでまた悲しい。
SNSを見てるとTwitterで楽して稼ぐなんて言ってる人がいる。
これもインフルエンサーだって努力してるし、みんなに見えないところでいっぱい失敗もしているということを忘れた意見だと思う。
オチがないけどそんなことを思ってる。
ご報告で今週の木曜から愛媛県にまた行ってきます。
今回は2週間ほど行きます。
旅日記も書こうと思いますので、読んでいただけると嬉しいです。