芸能山城組50周年記念演奏会に行った話
芸能山城組 創流 五十周年記念公演「幻響 其之壱 黎明」を
音楽仲間と鑑賞した。
【プログラム】
第一章 幻唱から幻響へ
演奏曲:
・ブルガリア女声合唱〈ピレンツェの歌〉、
・ジョージア男声合唱〈ディアンベゴ〉、
・『歌垣幻唱』から〈御綬結い〉、
・『輪廻交響楽』から〈瞑憩〉〈転生〉など
第二章 『幻響AKIRA』
演奏曲:『交響組曲AKIRA』から
・〈回想〉
・〈荘厳陀羅尼〉
・〈金田〉
・〈クラウンとの闘い〉
・〈鉄雄〉
・〈ケイと金田の脱出〉
・〈未来(レクイエム)〉
会場には、ガムランの楽器と竹製のバラフォンが設置され、ストライプの衣装の歌手や演奏者が、入れ替わり立ち替わりしながらプログラムの曲を演奏していった。
第一部は、芸能山城組のエッセンスであるブルガリアの声楽、タイの声楽、ガムランを紹介するコーナー。続く第二部は、世界でヒットし芸能山城組が広く世に知られるきっかけとなった大友克洋の映画「AKIRA」のサウンドトラックを中心に演奏した。
音楽がミニマルで単調なので、衣装の縦縞が舞台に現れたり消えたりするのは、視覚的にとても良い刺激となった。また低音を担当するバラフォンは、非常に大きく、1つの音程を2台に分けて2人の奏者で表拍と裏拍で分担しないとならない程のサイズで、これまた大きな撥を体を大きく揺さぶりながら慢心の力で振り下ろしながら打っている様子は、気迫満点で、これまでCDで聴くしかなかった音楽は、実際にはこんなふうに演奏するのか!と感動もひとしおだった。
終演時には、なんとあの山城祥ニが生出演(!)し、50周年を迎えるまでのメンバーとスタッフの働きに、温かく労いの言葉をかけた。
『輪廻交響楽』は、タイの少数民族の歌やケチャやガムランの形式で作られた音楽で、ミニマルなパターンの繰り返しに、微細な変化が少しずつ付け加えられていく。その集積が飽和状態になり大きな1つの響きのクラスターになる頃、突然大きな爆発音で中断される。しばしの静寂ののち、当初のミニマルなパターンが小さな音で再開し、これまでの楽曲全体を俯瞰するような短いコーダで曲は締めくくられる。輪廻転生という標題を音楽で語っているのだ。
私の『輪廻交響楽』体験は、小学生の時だった。初めて聞いた時には、いろいろな衝撃を受けた。太鼓の響き、西洋音楽のクラシック音楽には無い、民謡のような懐かしいメロディの合唱、お経の響き、そして輪廻転生という死生観をテーマにしているなど、個性的で強い主張が印象深かった。
そして、輪廻転生といえば、手塚治虫の長編漫画「火の鳥」〜異形編がある。
https://tezukaosamu.net/jp/manga/img/m0392/m0392_main.jpg
主人公の所業が、因果応報で自分に跳ね返ってくる。しかも主人公は、因果応報だけではなく、輪廻転生にも組み込まれてしまい、車輪の輪のようにグルグルと永遠に因果応報を繰り返す運命に陥ってしまう。その衝撃的な瞬間の場面は、相当な大きなコマで凄まじい効果的な表現で描かれている。
かつて小学生だった私はハマった。さらに『輪廻交響楽』の音楽を掛けながら読み、音楽のクライマックス・カタルシスの時点で、輪廻転生に陥るページを開くように読んでいくことにハマった。
漫画は、ページをめくると主人公がハッと覚醒するようなシーン、ページをめくると見開きで眼下に広大な風景が広がっているようなページがある。物語の臨場感を伝える効果的な手法だ。これに『輪廻交響楽』のカタルシスは似合うと思う。人間の存在や意味を問うようなテーマを扱った漫画だとなおさら良いと思う。例えば、宮崎駿「ナウシカ」、大友克洋「AKIRA」、白土三平「忍者武芸帳」「ワタリ」、長編小説では、ミヒャエル・エンデ「はてしない物語」、ル=グウィン「ゲド戦記」などの名作はもちろん、斎藤惇夫「ガンバとカワウソの冒険」など、主人公の固い意志で逆境を乗り越えていく冒険譚にも似合う。
お経を歌う歌、「死」や「虚無」、輪廻転生という究極のテーマに浸った体験は、その後の音楽体験にも影響した。例えばポップスの歌詞と出会ったときに、自分の全てを震撼させる程の感動にはならなかった。今となってみれば、自分の性格や性質が陰気で「死」というイメージに親和性が高かったのだろうと思う。
50年もの間、芸能山城組は「行動する文明批判」を標榜してきたそうだ。確かに、文明・社会といういわばそれ自体がひたすら「生」を志向する営みにおいて、生の一部でもある「死」をどう位置付けたら良いだろう?
夏の蝉時雨、すだく秋の虫も、耳に痛いぐらい旺盛だったのに、今や死に絶えてしまった。しかしまた来年同じ頃、再び生命が生まれて来るだろう。死が循環している。そして生が循環している。
以前、大学生を対象に、これまでの人生で最も好きな音楽とそれにまつわるエピソードや想いを募ったところ、多くの学生が流行のポップスを挙げ、かつ青春生活の恋や友情のエピソードを挙げる中、一人の学生が羽毛田丈史「地球に乾杯」を挙げ、この曲に、地球のかけがえのなさを感じたり、生き物や生命を思い敬虔な気持ちになる、と述べていた。
青春だ!部活だ!試合だ!オシャレだ!恋愛だ!と沸き立つ時に、人は死んだらどうなるんだろう?とか、どうして地球には生命が居るのか?と真剣に思索してしまうような学生だ。神経が鋭いというか鈍いというか、個性的というか…大丈夫か!?(笑)
しかしながら、みんなが陽気に湧き立ち、1つの方向に進もうとする時に、そっぽを向いたり陰気に反対したり、無意味さを唱えるような個体は、一定の割り合いで現れる。貴重な感性の持ち主であり、大事にしたいものだ。
芸能山城組の静かに高揚するトランス風音楽の説得力に、半ば朦朧とさせられながら、ふと、人間が生を志向して沸き立つ様子も、大きなマクロの視点から見たら、死の一部に過ぎないのかも知れない、というイメージが浮かんだ。
死ぬ。だからこそ生命の続く間、生きている。
例えば小学生の時、私は生きていた。そして死に向かっていたのだ。それは今も同じだ。今も私は生き生きと生きていて、そして死に向かっている。そんな風に再び生を実感できた気がする。
50年後に芸能山城組はどうなっているだろうか?社会はどうなっているだろうか?「ナウシカ」「AKIRA」が与えてくれた感動、見せてくれた新しい世界の地平線で、自分という物語を生きるぞ!そんなモチベーションが湧いてきた。
終演後は、音楽仲間と中野の居酒屋で宴会となった。小学生の思い出の音楽との再会、音楽仲間との未来の音楽についての予想の話し合い、とても良い休日となった。