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体験格差?子ども時代の体験は、どれだけ人生に影響を及ぼすのだろうか?

こんにちは!みかんです。

この記事を書いているのが7月3日8:00。

沖縄竹富島の旅行中に書いています。

普段とは違う場所で書いてみると、普段考えないことまで思い浮かびますね!


星のや竹富島で出会った親子

星のや竹富島は、一棟貸しのお宿で50部屋ぐらいしかありません。

一棟一棟も離れているので、聞こえるのは鳥と虫の鳴き声のみ。

ホテルのスタッフさんに今日の混雑状況を聞いてみると、

「今日は平日なので6割ぐらい埋まっていますね。」

とのこと。

50部屋×60%=30部屋が埋まっていることになりますね。

基本2人で来ている方が多いので、多く見積もっても一部屋2.5人とすると、

宿泊者は、30部屋×2.5人=75人となります。

宿泊者の中に40代のご両親と、幼稚園ぐらいのお子様一人の家族がいました。

ご両親が何とも穏やかそうな方。

お子様ものびのび育っている様子がうかがえ、見ているこちらも幸せな気持ちになれました。

ふと思いました。

幼少期に星のやに泊まれるこの子は、どんな体験価値を得ているのだろう?


星のやで出会ったお子様を考える

この子は理解できないかもしれないけど、洗練されたおもてなしを体験すると思います。

また、ご両親が裕福そうだったので、これから沖縄本島とかに行くのかな?

そこで戦争の歴史についても、分からないながらも学んだりするのかな?

学校の教科書で読む戦争の歴史と、現地の資料館で見る悲惨な歴史には大きな乖離があります。

また、旅行中は気持ちが開けているので、普段の教室の何倍も情報が心に届くでしょう。

こんなことを妻と話していました。

話しながら私が大学生時代に読んだ本を思い出しました。


国連ボランティアで息子さんを亡くされたお父様の本


手元に本が無かったので記憶を頼りに。

著者の中田さんは仕事で海外赴任が多かったそうです。

家族も一緒に赴任先についてきました。

ヨーロッパ赴任中に、息子さんとナチスのアウシュビッツの記念館に行ったそうです。

息子さんはそこで多くのことを感じ、世界平和に貢献したいと考えるようになりました。

その後、息子さんは国連のボランティアでカンボジアに。

そこで事故があり、若くして命を落とされました。

私がこの本を読んだのは学生時代。

当時は同じ学生でこんなに大きな志を持って活動された、息子さんへの尊敬の念が生まれました。

また、自分ももっとがんばらなければ!と思いました。

今でも同じことを思います。

でも、あれ?ちょっと待てよ…。と違和感も感じました。


あれ?ちょっと待てよ…。の理由

この違和感…。

「子どもの時にアウシュビッツに行ける人ってほとんどいないんじゃ…?」

これです。

私を含め、庶民の家庭に育った子どもたちは、そんな経験したくてもできないわけです。

(子どもの時にアウシュビッツに行きたいかと問われれば、疑問が残りますがそれは別の話。)

これには前提条件として、ご両親が体験の価値を大切にしていたということもあるでしょう。

感受性豊かな子ども時代に、たくさんの体験をさせてあげたい。

その体験が、その子の心を豊かにする。

その事実をご両親が知っていた。

ご両親にお金があって、教養もある。

そして子どものことを第一に考えられる。

こんな恵まれた環境を子ども時代に享受できる人は、一体どれだけいるのでしょうか。

※そんなことをこの記事でもチラッと書きました。


星のやの子どもと、国連ボランティアの青年

私はこの子たちは恵まれている!

それに比べて自分は…。

そんな話をしたいのではありません。

人生は運の要素があまりにも大きいのではないか。

この当然のことを私自身が見つめる必要があると感じたのです。

現代は社会的地位の高い仕事、低い仕事があります。

表立っては言わないけれども、潜在的には誰でも理解できると思います。

社会的地位の高い仕事に従事できている人が、自分の成功について様々なところで発信します。

それはそれで価値があります。

でも、この記事でも少し書きましたが、ラッキーだっただけじゃない?

そんな冷めたことを思う自分もいるのです。

そんな冷めた当たり前の事実に社会が気付き始めたから、「〇〇ガチャ」という言葉が生まれたのだと思います。

ラッキーを努力と履き違えると、それはそれは醜いモノに見えてしまう。

最近そんなことを感じます。


辛いことを頑張るのが努力?

努力についてもう少し書きたいことが思い浮かんできました。

努力とは何でしょうか?

私は努力という言葉に、

「辛いことでも頑張ってやり遂げること」

そんな意味が込められているように感じます。

私は辛いことを頑張らなければならない環境からは、抜け出した方が良いんじゃない?と思います。

(これは自分自身のサラリーマン生活に向けて言っていることなのかもしれませんね笑 )

例えば私がnoteを書いているのは努力なのでしょうか?

毎日毎日、結構な時間を記事を書くことに費やしています。

妻からは「あなたよくそんなに頑張れるね。」と言われます。

でも、私としてはなにも頑張っていないのです。

元々考えることが好きなので、それを頭の外に出したいから、ただ書いている。

ただ書いていたら、少しだけ読んでくださる方が増えた。

それは「辛いことを頑張る努力」からはかけ離れています。

私としては他人からは努力と見えるけれども、自分としては好きでやっているだけ、そんなことを仕事にできたら、さぞかし幸せだろうなと思います。


さいごに

あちこちに話が飛んですみません(笑)

私自身、ラッキーの連続だったので、それは最低限理解しなければ醜いモノになってしまうなという自分への戒め記事でした!(笑)

ノブレスオブリージュ。

ラッキーな者の義務!

これが言いたかった!🤣


こんな拙い文章を最後までお読みいただきありがとうございます!これからもサポートいただけるよう精進いたします!