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夢うつつ湯治日記 1

10月某日 初めての湯治

【初日】  金木犀の香り、ラベンダーの香り、初みかんの香り

金木犀の香りに包まれて、その宿はあった。
木造の古い民家を改造した平屋。同じ敷地内に、2階建ての木造家屋。

平屋の窓から湯気が立ち上っている。
わずかに硫黄臭が漂う。

敷地に入ると、白い中型犬がわんわんと吠え、しばらくすると慣れたように尾を振った。

傾きかけた陽光が照らす玄関先で、猫が一匹昼寝をしていた。

「ごめんください」

引き戸をあけて声をかけると、「はーい」という声がして奥から60歳がらみの小柄な女性がパタパタと小走りに出てきた。

名を告げると、「ああ、今日から5泊予約の方ですね」と言い、玄関わきの棚から取り出した手続きの書類と簡単な宿の説明書きを、渡された。

手続きを済ませると、女性は「お風呂と炊飯室はこの建物、部屋はあそこの2階になります」と言いながら、
部屋まで案内された。

案内された部屋は、六畳一間。小さな洗面台と小さな冷蔵庫。
日に焼けた畳の上には、小さな折り畳み机と、座布団一つ。
折り畳み机の上には、保温ポットと急須が置かれていた。

窓側の角の上に、短いバーが取り付けられ、古い針金ハンガーが二つぶら下がっている。

ふすまのない小さな押し入れの上段には畳まれた布団一組。
下段には、小さな電気ストーブとこたつ、そして座布団がもう1枚。

一応、テレビもある。
「なにぶん、山の中なんで、テレビはあまり入りが良くないけれど」と宿の女性が言った。

「お茶用のお湯は炊飯室の湯沸かしポットにあるから。お湯を取ったら水を足しておいて下さいね」

そう言いながら、女性は部屋を出て行った。


初めての湯治。
この宿を選んだのは、手ごろな宿泊代であることと、自宅から車で半日程度で行ける場所という以外、特に理由はない。

「湯治」 数日から数週間、食事を自分で作りながら、温泉で療養する。
雑誌やらネットやらで、最低限の知識だけは持っていた。

やや不便な生活も新鮮で悪くない。

初めての環境に少し緊張し、やっと湯治に来られたことに軽く高揚しながら、
荷物を部屋の脇に置き、来る途中で買ったわずかな食材の一部を冷蔵庫に入れた。

やはりまずは、お風呂だな。

早速、風呂場に行った。

二つ並んだ古い木製の戸の上にそれぞれ、「女性浴室」「男性浴室」と書かれた色褪せたプラスティック板が掲げられている。
男性浴室からは湯を浴びる音が聞こえてくる。

女性浴室のきしむ戸を押し開けると、湿度の高い空気が肌を包んだ。

ドアからは直接脱衣場は見えず、壁を突き当たって入ると、小さな脱衣場があった。

作り置きの棚が6つある。

どれも空なので誰も入っていないようだ。

浴室のすりガラスの引き戸を開けた。

うっすらとこもった湯気の中に、3人がやっと入れそうな浴槽。3つのカランとシャワー。

浴室の窓が開いている。窓を閉めて、服を脱ぎ、再び浴室に入った。

すると、もう一つ小さな浴槽もあることに気づいた。やっと一人が入れそうな小さな浴槽。
覗いてみると、透明な湯に、何かが包まれた生成りの布の袋が浮いていた。

体を洗い、まずは大きい方の湯船に浸かる。
やや褐色がかった湯の色と、かすかな硫黄の香りで、否応なく温泉に来た気分を盛り上げる。

やや高めの温度の湯船には長いこと浸かっておられず、湯船から上がって、もう一つの小さい浴槽に近づいた。

そこに浮く布袋を取って匂いを嗅ぐと、意外にもラベンダーの香りが鼻孔をくすぐった。

「へえ、ラベンダーのお湯」

思わず独り言ちて、その湯船に足を入れると、こちらは硫黄臭のないぬるめの湯だった。
この小さな浴槽は、温泉水を使わない湯らしい。

湯船に浸かりながら、浮いている生成りの布袋を揉みながら香りをかいでみる。

小さい花の粒粒と、茎らしい束が入っている感触とともに、ラベンダーの香りが湯気のなかに広がった。
合成浴用剤の強い香りでなく、天然のラベンダーの柔らかい香り。

しばらくラベンダーの香りを嗅ぎながらぼんやりと湯に浸かっていた後、ちょっと得な気持ちになりながら、風呂を上がった。

出口の戸に「入り終わった最後の人は、換気のために窓を少し開けて下さい」という張り紙に気づき、

ああ、そうかと慌てて浴室の窓を開けてから、部屋に戻った。

他の湯治客が夕食の用意を始めたのか、母屋から、だし醤油の煮物の香りが漂ってくる。
その香りで急に空腹を感じ、早めの夕食にしようと思いながら部屋に帰った。

初日の夜は何も作るつもりはなかったので、来る途中で弁当を買っていた。

電子レンジで温めようと、弁当を手に母屋にある炊事室に向かった。
引き戸のガラスの向こうに人影があった。

「こんにちは」 

薄暗くなってきたので「こんばんは」かもしれないと思いながら、やや動きの重い木の引き戸を開けて炊事室に入ると、
一人の老婦人がコンロの前で片手鍋をかき混ぜていた。


「もしかして、今日から泊まる方?」

その婦人はにっこり笑ってこちらを向いた。

感じの良さそうな人で良かった。私はそう思いながら、電子レンジに近づき弁当をセットした。

婦人は鍋の火加減を見ながら、話し始めた。

「そこ坂をちょっと上がったところにね、公民館があるの。
 毎朝、そこで野菜を売る地元のおばあちゃんがいてね、そこで買った野菜を煮ているんだけど…」

そう言ってから私の方を見て、

「うちはおとうさんと二人だけなんだけど、作り過ぎちゃって…。あの、良かったら少し貰ってくれる?」

とおずおずと切り出した。

チン

その時、電子レンジの加熱終了を知らせる音が鳴った。

「いや、え、でも… あの、良いんですか?」

どう答えようか戸惑いながら、断るのも気が引けるのと、部屋に立ち込める温かい匂いにも惹かれ、私は答えた。

「ごめんねー、なんか無理やりで。そのお弁当の隅に置いても良い?」


私は、慌てて電子レンジから弁当を取り出し、ラップを開けて、付属の割り箸でおかずを少し脇に寄せた。

婦人は菜箸で、鍋から煮ていたものを空いた隙間に置いた。

柔らかく煮えた茄子とピーマンだった。

「おとうさんが高血圧だから、味が薄いんだけど」

婦人はすまなそうに言った。

「茄子の煮物、久しぶりです。ありがとうございます。…あ、でも私は何もなくて…すみません」

市販の弁当の中身を見て、ちょっと気まずくなりながらも、お礼を言って、部屋に戻った。

「あ、そうだ! みかんがある」

今日買った食材の袋から、みかんを2個取り出し、慌てて炊飯室に戻った。

婦人がちょうど部屋を出るところだった。

「すみません、こんなものしかなくて。あの…、良かったら」

そう言いながらみかんを渡すと、

「まあ、わざわざ部屋から戻って来たの?
 みかん! 今年初めて食べるわ。わらしべ長者になったみたい。かえって悪かったわねぇ」

嬉しそうに受け取ってくれた。

たまたまみかんを買っていて良かった。

部屋に戻って、少しだけ冷めた弁当と、頂いた茄子とピーマンの煮物を食べた。

柔らかく煮えた野菜は、かみしめるとそれぞれの風味を融合させながら、出汁の味と共に口の中で優しく広がった。

「明日の朝、野菜を買ってみるか」

そう思いながら、袋からみかんを一つ取り出し、皮をむいた。

早生のみかん特有の鮮烈な香りが、部屋に広がった。


食べ終わった弁当のプラスチックを見ながら、いつものように捨てる気がせず、また使える気がして、割り箸とともに洗って乾かした。

窓の外はすっかり暗くなり、風に乗って金木犀の香りが部屋に入ってきた。
虫の声もまだ結構賑やか。

いろいろな声があるんだなぁ…。ひとつ、ふたつ、…みっつ?

虫の音の種類を聞き分けようとしていたが、山間の風はすっかり涼しく、すこし肌寒くなり、窓を閉めた。

テレビをつけたみた。

この宿にも、他に宿泊者がいる。
宿の薄い壁に気を使って音量を小さくして見ていたが、あまり内容も頭に入らず、テレビを消した。

もう一度、お風呂に入ろうかな…

そう思いながら、窓の外の母屋の方を見ると、女性風呂も男性風呂も明かりがついていた。
誰かが入っているようだ。

まあ、今日はもう入らなくても良いか。

布団を敷き、横になりながら持ってきた本を読んでいるうちに眠くなってきた。

まだ早めだけど、疲れもあり、寝ることにして消灯した。

母屋の方から、湯あみの音とともに談笑している2~3人の男性の声が聞こえてきた。

宿泊棟の他の部屋から、先ほどの婦人とは違う女性の話し声が時々ぼそぼそと聞こえてくる。

だれかが見ているテレビ番組の声も聞こえてくる。

階段を上がって、部屋のドアを閉める音。

そして別のどこか部屋のドアが開く音。

窓を閉める音。

時々、遠くで犬が遠吠えをしている。宿の犬も呼応して遠吠えをする。

何人くらい、泊まっているのだろう…

そう思いながら、それらを聞くうちに、眠りに落ちた。

(つづく)

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