こどもが生まれてから、介護よりで、考えると。
まだまだ、再開して、それほど経たないので、言っておきたいことがある。この文章を読んでくれている、限りなく少ない人数に対してだ。そう、この、精いっぱいのキラキラして、毒々しくない、まるで豆腐のような・・・、いや、豆腐にも味があるから、鼻セレブを毎日食って生活しているような、つまるところクズの集まりの中でクズっぷりを表現しないことに飽き飽きしている介護現場のもっとクズの人たちへ。クズっぷりなら負けない飯塚が言ってやる。心して聞いてくれ。パンクは音楽じゃないぜ。何を叫ぶか?違う。暇なだけだ。言うまでもない。こいつは、愛の言葉じゃないぜ。これは僕の言葉であり、僕の叫びだ。一緒に歌ってくれたらうれしいな。(another starting line ~Hi-standard)
『よう、暇人ども、元気しているか?』
(お待たせしました、暇人ども~ミュージカル『シカゴ』より)
クズが書いている文章だからといって読んでいる人がクズとも限らないわけですが、クズに取り合う暇もないでしょうから、今日は少しマジメに双龍天羅します(夢想転生しません)。
じゃあ、マジメに行きますか。いや逝きますか。
0.介護現場で必要なことをコドモから学ぶ
結構な勢いでブログを書いていて、そこそこな文でを書き溜めた(どちらかというと、話溜めた)わけだが。ふと気が付くと、金曜日の子供のことを全く書いていなかった自分に気付いたので今日 、書いている。
1.僕がこの業界に入った頃
大学を中退してフラフラしながら飲食店で働いていた僕は、2000年を前にしてその仕事を辞めてまたふらふらしていた。大学に復学しようかと思っていた矢先のことである。当時は介護保険が始まったばかりで、家業で介護事業を営んでいた家にとっては、猫の手でも借りたいと思うほど忙しい毎日を送っていたようである。ふらふらしている猫のような僕の手を借りたいと思ったのだろうか、もしくは忙しくしていた家族を見てられないと思ったのだろうか、血迷ってしまったのかもしれないが僕は介護業界に入った。
1.介護に入った
~そもそもこいつは、血迷ったのだけど、僕にとっては充実した日々だったと思う。介護業界に辟易とする(お金欲しかったら、この仕事辞めればいいのに~って思っていると、今度はこの業界の周辺でさらに業界から金をむしろうとする山賊がたくさんいるからね)が、介護が好きだ。僕は。本当にそう思う。どちらかというと、介護をさせていただくことで、普段お会いできない人と会うことができる。そして、それが日常になる。すると、今までいた世界というのは、別の世界線の話で、ここがシュタインズ・ゲートなのではないかと思う節もある。ご本人の思考をこれほどまでに追い続けることを生業にできるというのは、自分の別の選択である世界線が存在していることを意味し、それは、『生物』を無数に感じることで、どうやら昔から、輪廻転生とか、言われているのも、一生懸命に他の人の思考を考え、シュタインズ・ゲートに到達したブッダさんが考えたのかもしれない。
2.資格を取りに行く
訪問介護員2級という資格があるようで その資格を取りながら僕の懐にもお金が入るような時代だったので喜んで受講した(確か、一日8000円くらいか)。当時は現場実習を行わなければならず、訪問介護に一日、施設介護に二日間行かせていただいた。
措置の時代から特養に努めている方には、大変耳の痛い話だと思うが、そういった歴史も踏まえ、今は比較的マシになっていると聞いているけど、それでもまだまだ、隔離施設マンセーと言っている人を見ると、寂しい思いになってくる。施設実習先での出来事である。まだ資格がない僕は介護現場でやれることが一切なく、午前中に尊厳とか、本人のニーズに応えましょうとか、教えてくれた先輩職員(怖いスジ(笑))の方が、僕の挙動不審さに業を煮やしたのか、見かねて、『お昼時間の前にそこにいらっしゃる。車いすの利用者さんとお話をしてて下さい』と指示した。(実習生やることないから、話聞かせとけ実習、って介護あるある。実はこっちの方が専門性高い)
『初めましてこんにちは』ぐらいしか 言うことがない。手持ち無沙汰になった僕は、どうやら他の職員(怖くないスジ)がせっせと昼ご飯のためにたたんでいるおしぼりに注目し、その利用者さんと一緒にたたむことにした。
介護はど素人で飲食店はそこそこやっている僕は、おしぼりをたたむことぐらいだったら貢献できるのではないかと思った。当時の特別養護老人ホームにいらっしゃる利用者さんは、少なくとも僕の目には社会からはじかれて、やることもなくそこにいるものだと映った(当時のどしろうとな、飲食店で働くクズの目には、そう見えた。今の介護は玄人でそこで働くクズの僕は一概にそうだとは思わないが、そういう側面もあると認識できているつもり)。
『一緒におしぼりをたたみましょうよ』と僕はその方に問いかけた。『あらあらそんなことやったことないわよ』とご本人はおっしゃった。『僕以前飲食店で働いていたことがあるんです。手を洗ってアルコールで消毒してからやりましょうね』 とお話しし、車椅子を押しながら うがい手洗い手の消毒をし机に戻ってきた。 『意外とお上手じゃないですか』 『いやいやあなたもなかなかお上手ね』『うふふ、えへへ』 あらあら僕結構介護でもいけるんじゃないでしょうか、 と心の中でガッツポーズ。なかなか上手に2~3本できてその間にご本人と昔の話をさせていただいた。ご本人も昔、昔、乙女の頃、飲食店で働いていたそうだ。その頃はおしぼり文化はなかったそうだ。
向こうからすごい形相で、人権を第一に考えるベテラン介護職員の実習担当者が来た。『あなた方にはそんなことを頼んでいないでしょ。みんながご飯を食べるときに使うおしぼりなんだから。汚いからやめてください 』(あなた方!まあ、頼まれていないけど。)
向こうでヒソヒソとおしぼりを畳んでいたスタッフ達が集まっている。すごく悲しそうな顔をした利用者さんがそこに座っている。鬼の首を取ったといわんばかりの実習担当(文章だとブサイクを想像するだろうが、案外かわいい女性だった)がいる。郷に入れば郷に従え。この施設は日本という郷にあるのではなく施設という郷にあるのだと思った。『ねぇ⚫⚫さん、怖かったですねぇ。』 お部屋に戻りましょうか。その方は お部屋に戻っていった。僕はこいつこんな猫なで声も使えるんだと思った。
3.そのときから今まで決めていること
僕は基本的に江戸弁を使う。江戸弁は何となく、ぶっきらぼうだし 乱暴で、野蛮な言葉のように思われることがある。だからなるべく標準語を使おうと努力をしている。人間なので人間語を使うが猫じゃないから猫なで声は使わない。いや猫なで声を使うのは猫をかっている人間か。いや、飼っていなくても猫なで声は使うか。歌舞伎町を歩くと女の子は使っている。猫なで声ってなんだ?ま、いっか。 その時の施設の出来事以降、僕は高齢者であっても子供であっても スタッフであっても、友達あっても、言葉を同じように使う努力をしている。たとえエライヒトであっても、ウォーレンクロマティであっても、さすがに、美智子さまには使えなかったが、猫であっても カブトムシであっても オマール海老であってもだ。
子供が生まれて最初に驚いたのは周りの人は 子供に使う言葉がすごく人によって違うことだ 『んまー可愛いわね~、んばっ、んばっ。』って、言葉を使って、コドモの笑顔を引き出すのは、コドモの笑顔を見ることで、自分が楽しみたいのでは?と思ってしまうし、高齢者をちゃん付けするとか、マウンティングだし、対等な仲間というのも違う気がする。普通は違う人格を持った一人の人で、そこには好き、嫌いも発生する、そこに業として仕事として行っているいつもの僕らの日常に、業としての倫理が乗っかる。上から目線だと騒ぐ人は対象の人に、同じ目線に降りて来てほしいという要望があり、慇懃無礼だと騒ぐ人はもっと人間としての話をしようぜっって思のだろう。仲間・同志だと騒ぐ人はとある事情でその人を縛りたいと思い、内包したくて無意識に分断を作る。かくいう、こういったことをわざわざ書いている僕は面倒くさいと思いつつも自己顕示欲が高い。意外と言葉尻ってめんどくさいよね。
認知症高齢者からあなたは何に興味があるのと聞かれた時にオイラーの公式についてずっと説明してたことがある。聞くたびに苦痛の表情の本人(笑)。子供になぜ雲が浮かんでいるのと聞かれた時に、重力の話からずっと説明していたことがある。世の中にあるすべてのことを、誰にでも分かりやすく説明をしたいと思うけれどもなかなか上手に行かない。だけどそれを諦めて猫なで声を出すことや専門用語を連発することは好きではない。
4.んでどうなるか
そのように振る舞っていくうちに段々『すげえなあ』とか 『それはいけねえよ』とか 、どうしても江戸弁が出てくる自分がいる。 昔やったことがあるお遊戯も、いざ子供と一緒にやってみると、どうしてなかなか上手にできなかったりする。 踊りが苦手(もしかしたら、人のふりを見て自分が真似をするということが欠落しているのかもしれない)な僕の娘は、昨年のお遊戯会で 一切踊れなかった。今年は少し踊りが上手になったのか、張り切って踊っていた(欠落しているわけではなく、発達していなかったのねと安心した自分の脳みそを、とっととショットガンでぶちまけたい気分。修行が足りない)。喜ばしいことなのだろうが、そののち、僕が考えたのは、踊らなかった理由がもし『他の人と同じことをしたくない』ということであるならば、大衆の行為に巻き込まれて自分を曲げたのかもしれない。それは、人と同じように思うべきとか、迎合するとか、そういった無意識のお遊戯に存在する暴力なのではないかと、思う。『やりたい』と思う理由や出来事があり、そう選んだのであれば、あればやればいいし、『やりたくない』と思う理由があればやらなければいい。その理由が、たとえ『(好きな)〇〇君が一緒にやろうっていっているから』でもいい。でも、『クラスでやるっていうけど、やりたくないけどやった』だと、複雑な気持ちになる。でもそういった複雑な感情を共にして、僕と一緒に考えるのであれば、難しいことであっても、きちんとお互いが話し合わなければならない。だから大人にも子供にも同じ言葉を使っていきたいと僕は思う。
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