最新福祉脳!!!双龍天羅~介護ブラック選手権
0.介護職は聖人君子である。
介護職にあるまじき行為だとは思うが、長くやっていると(僕はこの業界に20年いるようだ)年に一度は遭遇するようになった。『この方が生きている価値は何?目的は何?』という思い。福祉職は、『人間の存在そのものを大切にしないと』いけないもので、それは聖人君子に近い、そう思われているようだ。聖人君子の条件は簡単で『カネがなく』『例え汚いものが前にあっても清く、怒らず』『常に微笑んでいる』こと。聖人君子的なものは『人がどうでも良いから、清く、怒らずいるようにセットし』『常に微笑んでいるようで仮面のような顔をし』『カネはそこそこある』。世が望むのは救世主である聖人君子であり、だから世の中には、聖人君子を目指すものがいない。本物の聖人君子は死後に称えられる。的な。聖人君子業界ではほんの一握りの成功者と数多の奴隷によって成り立っており、途中で脱落する堕天使のために、新しいキャリアがないと食っていけない。なんともブラックな業界。まあ、そもそも、食っていこうと思った瞬間に堕天使確定なのだけど。
1.とある、ひとり暮らしの利用者。
旦那とは別れており、息子が一人。本人はがんで余命半年とされており、そうか、じゃあ、断捨離を、と、身の回りをたたんだ。が、その宣告から5年ほど生きており、捨てなきゃよかった、と、感じているだろう。口癖は「もう死にたい」。ごもっともであり、降って湧いた『死ぬこと』を強制的に準備してきた本人にとって、生きる希望というものはそもそも存在しないので、いまだにいつお迎えが来るかわからない状態で4年以上生かされていることに、強い絶望を感じていたはずだ。息子は海外で30年程暮らしているが、母一人、子一人。息子も母も相思相愛、心配しており、毎日LINEで連絡を取る。息子は盆暮れには海外から帰ってきている。誠実で母思いの息子。この冬も、暮れの仕事を早々に、母のもとへ、いつもどうり帰ってくる予定であった。
2.息子が帰ってこない
その母から電話があったのが、息子が帰省する予定日の次の日。息子と面談する日取りを決めるための連絡だと思い、いつもの通り電話口に出る。いつものように落ち着いた声でその母が話す。私はこの声が好きだ。何が起こっても動じない、断捨離とはこういうことだ。ふと、いつもの息遣いより少しだけ荒く、発せられた言葉は、「息子が帰ってこない。なぜだろう?」。
私はご本人の家に行き、息子とのやりとりがあるLINEを見せてもらう。毎日のように交わしてきたLINEが帰国の前日で未読。母の「元気でやっている?」「帰ってくるのを楽しみにしているよ!」という緑色の吹き出しが続く。
「息子は帰ってくると言っていた。今までその約束は破ったことがないの。本人からの連絡もないので、何か事故に巻き込まれたのではないか?」私もそう思った。海外にいる間のLINE未読から、その間に何かあったに違いない。ちくしょうめ。勤務先には帰省していることを伝えているだろう。真っ先に思い浮かぶのは帰国予定の年明け以降に、おびただしい蠅と共に見つかる腐った遺体だ。
3.息子さんはいずこへ
現地の日本大使館に電話。住まいの管理会社に電話(英語じゃない言語では伝わらない!)散々連絡を取り、息子さんの安否確認。5時間ほど電話をかけては切り、たらいまわしにされた。現地大使館からその日の夜に私に連絡が入る。「息子さん、亡くなっていました。」私はまるでその結論を望んでいたかのように、「やはり」と安心した。これで本人に腐った遺体を見せずに済む。
「息子さんは現地で亡くなったそうです。心筋梗塞ではないかとの話で、自殺されたのか、解剖しないとわからないそうです。現地で火葬をするそうです。」私はその母に伝えた。こういう時は相談業務の経験が役に立つ。感情を一切出さない、事実を正確に。相手の反応を見ながらその心情に寄り添う準備をする。どういう反応をするのだろうか?こちらとしてはいくつかの反応パターンに合わせて感情を表出する準備はできている。私はなんという病気なのだろうか。まだ見ぬ聖人君子であれば、どのような反応をされるのだろうか?その母は泣かれると思ったが、取り乱さず、少し眉毛をピクリとあげ、ただ、頭の中には何もないような、しかし涼やかな表情で、私の話を聞かれ、「お骨は手元に置いておかないとね。」とお話しされた。
4.生きているってどういうことなのだろうか
帰り際、私は、お骨を手に入れ首をつっているその母の姿を想像した。たぶん、それが自然なありかたで、それでもなお生きてくださいとは、私には言えないな。と思うと、少し笑えてきた。人の死がこれほどまでに、大切ではないと想像することが、年に数回ある。人の命を壊そうと思っているわけではない。もう少し若ければ、耐えきれなくて人の命に手をかけることもあろう。しかしながら、これほどまでに手の中にひとの生死を取り扱う身分になると(それは階層的には聖人君子ではなくもっと最下層の身分のようなものだろうが)常日頃から美しいものにあふれた世界を根底から否定したくなる気持ちにあふれてくる。そしてそれは、自分の中で昇華されかえって美しいのではないかとさえ思ってくるのである。
一生懸命に生きている人を応援していくことが介護職の役割であろう。だから、人は一生懸命に生きていないといけないと、洗脳されるのもまた介護職だ。そして一生懸命に生きている人を応援する介護職の側面を上澄みだけさらって喧伝することで介護職を聖人君子だと考える人をどんどん作っていくこと自体が、介護職にとって大変な迷惑だ。所詮、世の中は前に立って刺される人間を求めており、そこに大きな負荷をかけていくことで安全地帯を作る。福祉が社会からはじかれた人の重大なセイフティネットであるならば、そこにかかわる人を社会からはじいて見えないようにしてしまえば、中心位置の安全性が高まる。介護職がきれいであればあるほど、社会からはじかれた人口が増える。死んでいくことにふたをしたいし、棺桶の中でも花に囲まれて散々泣いて、火の中に放り込むのと同じで、たぶん、社会からはじかれているのは、介護職なのではないかと思う。
それでもなお、僕はこの仕事が大好きである。たとえ堕天使であっても、どれだけクズであっても、パンを食べることはできるからな。
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