注文をまちがえる料理店におけるウェイターを応援している黒子の心得3
黒子に求められる知っていること
その1ご本人が介護職のことを好意を持って認識していること
その2ご本人の身体的な安全
その3ご本人の認知能力
その4飲食業の経験
その5認知症状態の方から接客を受けたことがある経験
0.おいおい老い展
今回注文をまちがえる料理店は 厚生労働省内で行われたが、 その模様は3月21日から25日まで行われる『おいおい老い展 』に出展される。 コミュニティデザインの世界ではかなり有名(らしい)な方 Studio-L 代表の山崎亮さんをコーディネーターに、五日間行われるイベントである。アーツ千代田3331という廃校を使った、イベント会場で実施される、平成30年度厚生労働省補助事業である。 イベントコピーとしては『長く生きることはいつだって、ユーモアがあふれている。だから人生は傑作だ』となっている。 注文をまちがえる料理店のネーミングは もちろん誰でも知ってるであろう宮沢賢治の児童短編小説の『注文の多い料理店』をもじっている。マタギが森の中で料理店を見つけ、化け猫に様々な注文をされ、結果、自分が食べられそうになるお話である。老い展のイベント自体は、 注文をまちがえる料理店の発起人である小国士朗さんと新進の活躍中の研究者である堀田聡子さんのオープニングトークからはじまる。 医師の佐々木淳さんや株式会社あおいケアの加藤忠相さんなど、 これからカラフルな医療介護業界をデザインする可能性を持った方たちも参加される素敵なイベントになっているようだ。イベントコンテンツも老いとトイレとお出かけ、老いと笑い、 これからの老い、 老いとファッション、 老いと多様性 、老いと幸福、老いとデザイン、老いのコミュニケーションデザイン、 器とインテリアと老い、老いと遊びの発明 など、老いという言葉を十分に考えられるようなイベント構成となっている。
1.『老い』や『病気』への差別
人間はオギャーと産まれてから二十歳ぐらいまでの間に、自分が自分であるということを認識するとともに 、自分が他の人とはそれほど変わらない存在だということを知って安心する 。他の人とそれほど変わらないけれども 他の人と少しだけ違うところを自分の個性になどと誇りに思ったり、かっこよく思ったりする。 そうやって自分の中の 普通を作り出す。僕は幼いころ、駅のホームで電車を待っていると、すごいスピードで脇を駆け抜けた人を見た。目をやると、両脇に松葉杖を抱えた片足のない人が電車に駆け込むところだった。上手に松葉杖を使うと、誰よりも早く移動することができる。当時は水木しげるの妖怪図鑑を好んで見ていたが、からかさお化けを想像して恐怖を感じた。それが初めての身体障碍者との出会い。以後、戦争で自分の体の一部をなくした方が上野公園などでお恵みをとたたずんでいるのを見ると(昔はよくいらっしゃった)子供ながらに『自分がそうなったらどうしよう』と強い恐怖を感じた。もちろん、今でもそうなったらどうしようと思う。今のように生きることはかなわないと思う。コドモながらに、がんで亡くなる方、自死を選ぶ方、障害をもって生まれてくる方、様々な方をお見掛けし、恐怖と自分はそこにいないという安心感を得た。そうならないために、また、そうなっても治りたいという思いから大学も選んだ。知ってさえいればたとえそうなる可能性があっても、自分に降りかかることは少ないのではないかと思った。『知らないこと』への恐怖ってのは人を壊す。『無知』ってのは、大変罪深い。
2.高齢者
死は経験したことのない世界で『知らないこと』なのと同様に、『自分よりも老いていること』は、経験したことがなく、その人が感じていることと同じように考えることはできない。今、この仕事をしているから、少しづつ高齢期に係るいくつかの苦悩や喜びを知ることはできなくない。認知症状を伴う病気による病理や心理なんかも勉強してなんとなく特性を理解しているつもり。自分がそのような状態になったときにどのように考えるだろうか?と想像を巡らせる。もちろん、そもそも人間が個々に考えていることは違うので、自分と同じではないけど。病気の理解よりも人間そのものの理解の方が大変だということを知ったうえで、それでも違いの一つとして認識をしていないと強い恐怖を感じる。そうだ、僕は僕と違う人は何を考えているかわからないから幼いころに障がいをお持ちの方に感じたような『恐怖』を感じているのであって、そういった自分の中にある恐怖を抑えるために、『私はあなたの敵ではないから攻撃をしないでくださいね』という笑顔を向けるのだ。
3.自分と違うということのすばらしさ
そのような考えで介護労働ライフをたしなんでいると多くのことに気が付く。人間は自分と違うということに対して無差別に恐怖を感じる対象ではないということだ。僕は生まれる前に祖父を一人亡くしていて、その方は白黒写真でしか見たことがない。仏壇に上がっている写真は畏怖の対象だ。もう一人の祖父は畏怖の対象ではあるが生きていたので色があり、華があり、動いていた。簡単なことだけど、人間としてやり取りができることで少し安心した。夕方から日本酒を飲み、少し酔っぱらいながら将棋や花札をたしなむ。粋でいなせな江戸っ子の祖父だった。僕が高校生の時に他界したのが初めて人間の骨を見た時だ。身近な人も年を取ると亡くなるのだと感じた。人が亡くなり、自分の中からいなくなるということを経験した。介護労働ライフでは様々な方が亡くなった。一生懸命にご本人と過ごすと、祖父の死よりも悲しく思うことも多くあった。ある方の亡くなられるときの言葉で、『もし、あなたの存在が頭から消えるということが、あなたの死だとするなら、私の死はあなたの中では私が死ぬだけだけど、私にとってみれば今まであった人が全員私の頭から消えるんだから、私の中の人がみんな死んでいくのと同じ。悲しまないでね。私の方がたくさんの人を亡くしていくんだから。』知っていることその6、嫉妬するくらいステキな存在に嫉妬しないこころ。
4.僕の中では高齢であるということは僕よりも先にこの世からいなくなる可能性が極めて高い対象
僕はすでに43歳で、人生の折り返し地点をとっくに曲がっている。42歳の方よりも早く死ぬ可能性が高く、5歳の自分の娘より、2歳の自分の息子より。早く死ぬ可能性は極めて高い。すでに彼らに対して、僕は死のにおいや想像を振りまいていることだろう。この窮屈な世の中で生き延びているということ自体、畏怖ではなく畏敬を感じる。想像するに苦しい中で、彼らが時折見せる生きるための処方箋である『粋』や『味』というのは、私たちが『かわいい』とか『カッコいい』なんかを超えたただただ首を垂れる畏敬の対象だと思う。知っていることその7、ご本人に対する畏敬の念。
5.注文をまちがえる料理店が介護労働者に与える一つのよいこと
僕たちは大変未熟で、仕事の中で今までのくそったれた人生を反芻しながら、恥ずかしく思いながら生きている。決して高齢者がステレオタイプに美しいとする立場ではない(案外自分の尺度ではトンデモナイ人もいるし)けど、仕事をしていると自分の無知に遭遇することが多い。高齢者だけではなく、コドモもそうだが、自分と経験が違いすぎる人とかかわると、なんと自分がちっぽけだと思い知らされることか。少しの違いで大騒ぎする必要もない、少し違うことで心配する必要もない、そもそも、違うということに何ら心配はいらない(もちろん、一般社会でお金を得ようと必死になるのであれば、毎日ビジネスの相手に安心させるスーツを着て安心させる薄ら笑いが必要になるだろうけど)。んで、それでもなお、老いというものは、長く生きていた本人のやりたいことをやれなくする(体しんどいもんね)。派生イベントも含め、スタッフがウェイターに感じているのは、『いつもよりもご本人の動きがよい』ということだ。僕たちが祭りで張り切って持てない神輿を持つように、火事場の馬鹿力があるように、ご本人のできることが見える。筋トレで100キロをクリアしたからと言って、日常的に100キロを持ち歩くことはないが、100キロを持つことができるということを知っているということは、本人のできることがわかる。それだけで、目標設定が変わるということだ。老いのさみしいところは、できなくなることが多くなることではなく、できないと他人に思い込まれることだと、介護の日常に明け暮れている私たちをハッとさせる瞬間と環境があり、また、自分の思い込みを知り、恥ずかしい思いをするのだ。
おしまい。
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