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『飛ぶのが怖い』

書庫の段ボールの中から出てきたエリカ・ジョングの『飛ぶのが怖い』は1976年11月に柳瀬尚紀訳で新潮文庫から発行されたものだった。

確かに、その中には、文豪と呼ばれるような男性作家の書く女性が現実にそぐわない場合のあることが書かれていた。だが、そこにはトルストイとフローベールが入っていなかった(トルストイは一回だけでてきたが崇拝する作家のリストに入っていた)。わたしは、アンナ・カレーニナとエンマ・ボヴァリーがどこかおかしいという記述と共にエリカ・ジョングを記憶していたのだが、そんなことは『飛ぶのが怖い』のどこにも書かれていなかったのだった。

しかも、わたしの記憶では、エリカ・ジョングは同性愛者か少なくとも男性を嫌悪しているはずだったのに、まったくそんな傾向はなく、バイセクシャルですらなかった。トルストイとフローベールに関する記述を読んだ記憶はかなりはっきりしているので、同じ時期に読んだ別の本と取り違えているのは明らかだったが、1976年にエリカ・ジョングよりも過激な作家なんて、どうしても思い出せなかった。エリカ・ジョングは日本でもブームを巻き起こしたので、インタビュー(https://www.playboy.com/read/the-playboy-interview-with-erica-jong )で語っているのかもしれないと思ったが、『飛ぶのが怖い』と同じ話しかしていなかった。

作者と思しき主人公のイサドーラ・ウィングは、精神分析医で二番目の夫のベネットとウィーンの国際精神分析医学会に出席する。書名の『飛ぶのが怖い』は文字通りの意味で、飛行機が怖いという話から始まり、学会で出会った著名な精神分析医であるエイドリアンとの浮気とパリへの逃避行が語られるのがメインストーリーで、その合間に、家族のこと、最初の夫や今の夫、その間の彼氏のことが語られるという構成になっている。表現は露骨で過激だが、主人公がしていることは、現在の夫に飽きて、別の男性に惹かれていく、というアンナ・カレーニナやエンマ・ボヴァリーと同じ行為であり、どちらが真実の女性を描いているかはわからなかった。というか、わたしが男性だからなのか、どの女性も真実の女性にしかみえなかった、というのが正直なところである。もちろん、「真実」の女性はイサドーラ・ウィングだけなのである。

実は、わたしは高校時代に読んだ、そのエリカ・ジョングではなさそうな女性の書いた文章に影響されて、男性作家の書く女性はみんな偽物だと思い込んでしまい、『アンナ・カレーニナ』も『ボヴァリー夫人』もつい最近まで読んだことがなかった。実際に読んでみると、どこが偽物なのか、わたしにはまったくわからなかった、というより今まで読んだどんな作品よりも女性の真理を描いていると思った。もっとも、だからこそ、それは男に都合のいい女性解釈であるのかもしれない、とは思った。女性作家の書いた女性は、たいてい母や妹やその他の身近な女性のように、わたしが「なんで?」と思うようなことを考えたり実行したりするからである。ある意味、男性のまったく想像の埒外にいるのが女性というものなのだ。

ところで、わたしが国語の教師に発した質問の答えはというと、拍子抜けするほどあっけないものだった。

「わたしは、そうは思いません」。

つまり、アンナ・カレーニナにもボヴァリー夫人にも、特に違和感はないというのだった。彼女は明らかに面倒な議論を避けたのだと、その時わたしは思ったが、すでに周囲の冷たい視線が全身を貫いていたので、国語教師の対応は正解だった。

同じ教室で授業を受けていた、後に小学校の教師になった松尾君が、「その疑問の内容は理解できたけど、なぜそんなことを疑問視する必要があるのか僕には理解できない」と逆に質問してきた。皮肉ではなくて大真面目にそう言ったのだった。

けれども、わたしはうまく答えられなかった。今なら、松尾君の疑問はもっともだと思う。わたしは、いったい誰の目を気にしていたのだろうか。うんと大雑把にいえば、書き手はすべて男か女で読み手もすべて男か女である。覆面作家は別にして、読み手は書き手の性別を知っているから、そのつもりで読むだろう。それだけのことではないか。もちろん、幼いエリカ・ジョングのように、ちょっと違うと思いながら読むこともあるだろうが、読書というのはそういうものであって、書き手は自分の書けることしか書けないに決まっている。

ヴァージニア・ウルフは次のように述べている。

考えてみれば不思議なことですが、ジェイン・オースティンの時代まで、文学上の名高い女性といえば男性の描いたもので、しかも男性との関係によってのみ眺められていたのでした。それは女性の人生全体からすればほんの一部にすぎません―――その一部にしたところで、異性という黒眼鏡ないし色眼鏡をかけて見ていたのでは、そのまたごくわずかな一部しかわかりません。たぶん、文学上の女性が特異な性質を持っているのは、そのせいかもしれません。極端に美人だったかと思うと、極端に残忍だったり、天国のような善と地獄のような悪を行き来したりします―――恋する男性とは、恋の浮き沈み、うまくいっているかそうでないかに応じて、相手の女性への見方をそれくらい変えるものなのでしょう。もちろん十九世紀の小説家にこれは当てはまりません。十九世紀小説の中では、女性ははるかに多彩で複雑です。実際、たぶん女性について書きたいという願望が募ったからこそ、男性たちは、詩劇は激しすぎると感じて使わなくなり、もっとふさわしい器として小説を考案したのかもしれません。とは言っても、プルーストの作品においてもなお、男性は女性についての知識を阻まれ、部分的にしか女性のことを知らないのは明らかです―――同じように、女性も男性についての知識を阻まれ、部分的にしか知らないのですが。

(ヴァージニア・ウルフ『自分ひとりの部屋』片山亜紀訳 平凡社ライブラリー)

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