ドナウ源流行
母とは海外旅行をしたことがない。国内旅行は、なんどもしているのだが、海外となるととたんに敷居が高くなる。だが、母は他の家族とはけっこう海外に行っているのだ。
弟は、小学四年生だった80年代の初めに、父の長期出張に母に連れられて行き、ロンドンとデイビス(カリフォルニア州)にそれぞれ三カ月ずつ滞在した。その間、弟は現地の日本人学校に通った。わたしと妹は、大学があったのでふたりで日本に置き去りにされた。その代償だったのか、母が翌年わたしと妹がふたりで欧州旅行をする旅費を出してくれたのは、以前に書いた通りである。
母は、その後も数回、父とふたりで学会出張に出かけたが、子供たちはだれも連れていってもらえなかった(もしかしたら弟は行ったかもしれないが、わたしは実家にいなかったのでよく知らない)。
その後90年代の半ばに、一度だけ、母が企画して家族がお正月をハワイで過ごしたことがあった。父の退職祝いだった。ただ、家族といっても、妹は結婚して二人の子供もいたので、四人そろってついていったが、弟は医学部の大学院生だったから行っている余裕はなく、わたしも、子供が生まれたばかりだったので行くことができなかった。
というわけで、わたしだけが、母とも父とも一緒に海外旅行をしたことがない、ということになるのだが、なぜか、母とわたしはボーデン湖に二人でバス旅行をしたことがあるのである。
ボーデン湖というのは、ドイツの南のはずれにあってスイス、オーストリアと国境を接しているライン河の起点となる湖である(正確にはライン河の源流はさらに遡ったところにある)。途中で、ドナウエッシンゲンにも立ち寄ったので、宮本輝の『ドナウの旅人』が好きな母の目的はそちらだったのかもしれない。
ドイツは日本から見れば明らかに海外なので、そういうものも海外旅行と呼ぶのなら、それはまさしくその通りなのだが、わたしが母としたのはバス旅行だけで、日本からドイツへ行く、あるいはドイツから日本へ帰る飛行機は、単に便が違うというだけでなく完全に別々だったから、自分のなかでは、それを母との「海外旅行」だとはどうしても思えないのである。
だって、ただ駅前でバスに乗って、ボーデン湖に1泊旅行をしただけなのだもの。どこからみても、ただのバスツアーにすぎなかった。場所が日本じゃなかっただけのことなのだ。
とはいうものの。ふだんは関東のこの狭い実家に住んでいるわたしと母が、二十五年前のある日、ドイツで出会ってバス旅行をするまでには、やはりそれなりの紆余曲折があったというのも間違いのないことだったのである。