オペラを観に行く
オペラを一度生で観たいものだと、大学で同級だったオペラ狂のMに言うと、ウィーンから有名なオペラ歌手が来てリヒャルト・ワーグナーの『ニュルンベルクのマイスタージンガー』をやるといった。
それは主役だけが外国人で、あとはすべて日本人なので、値段もお手頃なのだということだった。それでも、三階の桟敷席のようなところで5千円もした。
独身時代のことで、母に話すと観てみたいと言い出したので、Mに言ってチケットを追加してもらった。
それまで、オペラのレコードはいくつも聞いたことがあったが、劇場で生のオペラを聴くのは初めてだったし、本場の歌手が歌うということで期待に胸を膨らませていた。
ところが、である。
わたしたちは、舞台から遠く離れた三階の中央からやや右のあたりに、M、わたし、母の順に並んで座っていたが、途中の静かな場面にさしかかったとき、突然、Mがわたしの鼻息に耐えられなくなり、どうにかしてくれと言い出した。
自分の鼻息が他人の迷惑になるなんて、その時まで一瞬たりとも思ったことがなかったので、これはかなりショックだった。そういわれてみると、確かに自分の鼻息は他人よりも大きいような気がしたが、まさか音楽鑑賞の妨げになるほどの騒音だなんて思いもしなかった。
一所懸命に鼻息を抑えようとしたが、別に鼻水が出ているのをすするとか鼻が詰まっているので強く吸い込むというようなことではまったくなく、いつも通りに息をしていただけなのだから、どうしたらいいのか見当もつかなかった。
それでなくても、わたしは指摘されたこと自体がショックで、パニック状態になってしまっていて、鼻息がうるさいといわれているのにもかかわらず、心臓がバクバクしてきて、呼吸は当然さらに荒くなった。
鼻がうるさいのだからと口で息をしてみたが、たいして違いがあるようには思えなかった。自分の声が自分では正確にわからないのと一緒で、息の音も自分では客観的には判断できない。手を当ててみたが、耳は口腔を通した音も聞いているので、かえってうるさくなってしまった。だがまさか、うるさいといわれた当の相手に、声に出して聞くわけにもいかなかった。
結局、息をできるかぎり弱くゆっくりとする以外になすすべがなかった。完全な無音にしろといわれても、寝息という言葉があるように、人は寝ている時だってそれなりに音を立てて息をしているのだから、無理に決まっている。それを消せというのは、要するに死ねと言われているのに等しい。息の音(根)を止めろというわけだ。
見るに見かねた母が、席を代わって間に座り、わたしはできるかぎり体が母(とM)から離れるように上半身を右側に倒して(といっても右側には知らない人が座っているので限界があった)、Mの機嫌をこれ以上損ねないようにするしかなかった。
わたしの器質的な障害を責められるということは、そういう体に生んだ母を間接的に責めている事でもあるから、その母を前にしてわたしは複雑な気持ちだった。母がいなければ席を蹴って帰ってしまっただろうが、母を困らせるようなことはできなかった。
さすがに、Mもそれ以上はなにも言わなかったが、わたしは針のムシロ状態で、もうオペラを聴くどころではなかった。
オペラが終わると、オペラ狂のMは、いつもの仲間がたくさん来ている(オペラの公演は少ないので、たいてい同じ顔触れが集まるらしい)ので、そちらに合流するからといって、さっさと去っていった。お互いにそのほうが良いのは明らかだった。
実際のところ、隣の男の息遣いが嫌であるのなら、それは隣の男の存在自体が嫌だということである。わたしのなにかがMの逆鱗に触れたのは間違いないと思うが、今に至るまでそれがなんであったかは謎のままだ。それとも、まさか本当に鼻息がうるさかっただけなのだろうか。
母はもう二度とオペラに行きたいとはいわなかった。