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結核狂想曲(1)

新型コロナウイルスというものが、まだ世間を騒がすようになる前のことであるが、わたしは、なにかの感染症と思しきものにかかって1週間高熱にうなされたことがあった、という話を1年半ほど前に書いたことがある。

続きを書くつもりでいたのだが、面倒臭くなってそのままになっていた。話がいささか込み入っていたからだ。

それは2018年9月のことだった。60歳の誕生日を翌月に控えていたわたしは、福岡出張から帰ってきて、ちょうど10日後に38度6分の高熱を出して寝込んでしまったのだった。高熱が幾日も続くのは何十年ぶりかのことで、5日たっても下がらないのでさすがにヤバいのではないかと思って医者に行った。原因は不明だったが、抗生物質を注射すると嘘のように熱は下がったので、普通に考えればそれは細菌感染症だったのだと思うが、5日間も放置していたので、もしかしたら自然治癒と注射のタイミングが一致しただけかもしれず、本当の原因は今にいたるまでわからずじまいなのである。

熱は下がったが、さすがに1週間も高熱を出していたので体力は極端に低下して、しばらくは立っていることもできないくらいだったので、さらに1週間勤めを休んだ。その間に、なぜか熱が出ている間は全くでなかった咳が出始めた。薬のせいだろうか、と思ったが、薬を止めても咳は治まらなかった。熱はもうまったく平熱のままで、咳さえなければ完全に治癒したと言える状態だったが、咳があまりにひどいので勤めに行くのがためらわれた。それでも、咳は四六時中出っ放しというわけではなかったから、しだいに落ち着いてきたのを見計らって職場に復帰したのだった。

問題が起きたのはその後だった。

わたしは、レントゲンを撮るとかならず影が写る。若い頃は、レントゲンのたびに、古い病巣があると言われて気になっていた。だが、実のところ、わたしも家族も誰一人、わたしがいつ結核になり、いつそれが治ったのかを知らないのである。レントゲンではかならず指摘されるのだから、それは専門家の誰が見ても結核の古い病巣で間違いはないはずなので、おそらくまだ幼稚園にもいかないころに結核に感染し自然治癒したということなのだろうと勝手に考えていた。

わたし自身には病気だという自覚はまったくないし、実際なんの病状もない。レントゲンを見るお医者様も、特に慌てるようすもなく、古い病巣が、というだけで、何かをする必要があると言われたことは一度もなかった。だからわたしは、それは結核に感染したが完全に治癒していて、現在は何の問題もないのだと、自然に考えるようになっていた。

ただ、そのうち歳をとると、かつて結核だった人が再び結核になる症例(再燃というらしい)が増えているというニュースをみかけるようになり、わたしも次第に歳をとるわけで、なんとなく気にはなっていた。とはいえ、もともと結核であったというのは、レントゲンに写る古い病巣以外には証拠がないわけだから、病気だったとしてもおそらく極めて軽く治まってしまったのだろうと思われる。だったらおそらく再燃はしないだろうし、たとえしたとしてもまた極めて軽く済んでしまうのではないだろうか、と漠然と素人頭で考えていた。

そこへ、今回の高熱とそれに続いてひどい咳が止まらなくなる事態に陥ったというわけなのだった。まさか、とは思ったが、一応そのような経緯があるのは事実だったし、ひどい咳といったら、やはりだれだって結核を考えるだろう。咳の感じが結核らしくないようにも思ったが、わたしの知っている結核の咳というのはTVや映画でみたものに限られている。つまり本当の結核の症状なんて見たことがないのだから、自分のしている咳が結核なのかどうかなんて正確にわかるわけもないのだった。

わたしの勤務先にはお医者さんが何人もいる。毎日のように彼ら彼女らと接しているので、咳がまだ治まらないうちに職場に行けば、顔を合わせた時にその話になるのは避けようがなかった。小さい職場なので高熱で2週間も職場を休んでいることは知れ渡っていた。わたしが普段いる部屋の隣には主幹と呼ばれる女医さんがいて、まだ40代だが、主幹というくらいだからいわゆる幹部職員のひとりだった。とてもきさくな人なので、ふだんからいろいろ世間話をすることも多かった。とうぜん、長く休んだあとともなれば、相手は医師だからいろいろ病状などを詳しく話す必要があった。

冷静に考えれば、そのような位置関係にある医師を相手に、いくら相手が20歳も年下できさくな女性だからって、冗談めいたことを、特に病気のことでは言うべきでないのは明白だったのだが、たぶんわたしは病み上がりで彼女に甘えてしまったのだろうと思う。咳が止まらないことだけでなく、まったくいう必要のない、乳児期の結核のことを話してしまったのだった。

まったく余計な一言だったことは、自分でもすぐに気がついた。彼女の態度が急にかたくなになってしまったのがわかったからである。相変わらず笑顔ではあったものの、すみやかに病院に行って精密検査をすることを命ぜられた。それは有無を言わせぬ断定的なもので、ことわれるような状況ではなかった。確定診断が出るまで休めとまではいわれなかったのが不幸中の幸いであった。


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