(番外編)「ムール貝のなんたらです(ドサッ)」
このブログの編集者さんと飲んでいたときのこと。ちょうど編集者さんがトイレに立っていなかった間に、いままで一度も来ていなかった、バンダナを海賊巻きにしたウエイターらしからぬウエイターが現れて
「ムール貝の(なんたら)です」
と言いながら持ってきた皿をつっけんどんにテーブルに置いた。一瞬ウエイターの風体に驚き、ムール貝は注文してないので違うテーブルと間違えたのだと思って、頼んでないと言うと、一度は持ちかえったものの、しばらくして注文を取ったウエイターが同じムール貝を持ってきて、
「ご注文いただいてます」という。
戻ってくるのに少し間があったのと、わたしもいい加減酔っ払っていたので、すでに文句を言ったことすら忘れていて、ぽかんとしていると、
「確かにムール貝をご注文頂いていますよ」といって、メニューを開いて、これとこれ、そしてこれ、とそのとき頼んだ3品を順番に指差して名前を復唱した。
そう、確かにそのとき3品注文したことを思い出したが、それでもムール貝は頼んだ覚えはないので、多分まだ憮然とした表情をしていたのだと思う。もっとも憮然としていたのは単に酔っていたからで別に怒っていたわけでも気分を害していたからでもないのだが、ウエイターは違うふうにとったらしい。
さらに、「これは三番目に頼まれました」と説明した。老眼で暗い店内では彼が指さすメニューの文字が読めない。しかたなくメニューをひったくるようにしてメガネをはずして凝視すると、そこには本日の貝類の白ワイン蒸しと書いてあった。
ああ、とそのときやっとなんのことか理解した。簡単なことだった。わたしは、「本日の貝類の白ワイン蒸し」を注文したのに持ってきたのがムール貝だったので、わけがわからず頼んでないと答えたのである。
ウエイターにとっては、両者が同じものであることは今日開店した時から常識だったかもしれないが、あいにくこちらにそんな常識はない、というただそれだけのことだった。だが、どうやらウエイターはあくまでも自分の常識に固執して、わたしが嫌な酔客であると決めつけているようだった。
考えてみると、彼は最初からこちらが間違っていると決めつけてきた。もちろん行き違いはあったにせよ、確かにこちらの間違いといえないこともない。だが、わたしの注文した料理の名前と、さっき別のウエイターが持ってきた料理の名前はまったく違うものだった。おなじ貝なのだから察しろよ、というかもしれないが、そんなこと言い出したら、ならばボンゴレビアンコを注文してボンゴレロッソを持って来ても黙って食べろと言うのか、ということになってしまう。料理の名前は一字違えばまったくの別物である。本日の貝類がムール貝だなんて厨房とウエイターの間の今日数時間だけの符牒に過ぎないものを察せるわけがないじゃないか。単に「本日の貝のワイン蒸しです」と言って出してくれれば何の問題もなかったのに。
編集者さんがかなり長いトイレから帰って来たので、
「貝のワイン蒸しが来たよ。本日はムール貝だったらしい。松山らしいいいお店だね。店員さんもみんな松山のひとなのかな」と皮肉を言ったが、もちろん編集者さんは皮肉を言ったとはとらずに、ただ
「まさか、従業員は違うでしょ」と素直に答えた。
わたしも別に松山に偏見があるわけではない。ただなにかひとこといわないと気が済まなかっただけである。あえて言わせてもらえるなら、彼は最初から最後まで自分が正しいと主張するだけで、申し訳ないのひと言すらなかったのだ。
後で考えるに、海賊のようにバンダナを頭に巻いたウエイターにはどこか違和感があった。手のあいたシェフが自分で持ってきたのだろうと思う。こちらが忘れるくらい時間も立っていたわけだから、シェフはウエイターに言われて大慌てで作って、自ら急いで持ってきたのだろう。それをあっさり拒否されてしまったので、厨房でシェフはウエイターに文句を言った。ウエイターは間違ってないので当然気分が悪い。自分の正当性を立証しなければ立つ瀬がない。で、わたしのところに来たわけだ。
そう考えると、いきなり殴りかかられなかっただけでも不幸中の幸いといわなければならなかったのかもしれない。さすがにウエイターだから遠慮したのだろうか。
二人客ばかりなので、他がみんな四人席に座っているのに、たぶん事前に予約したせいでわたしたちだけが店の一番奥まった二人席に案内されたということもあって、なんだかあまりいい印象が残らなかったが、料理はけっこう美味しかった。また行こうと思うが、まだあのウエイターさんがいたらちょっと嫌だけど。