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『なぜ古典を読むのか』

もっとも、歳をとったことで、若いときに面白くないと思ったものが面白くなったのは、須賀敦子ばかりではなかった。

2012年に文庫で出たイタロ・カルヴィーノの『なぜ古典を読むのか』という本がある(これも偶然だが須賀敦子訳だ)。表題と同名のエッセイ「なぜ古典を読むのか」の中で、カルヴィーノは、「ある古典を壮年または老年になってからはじめて読むのは、比類ない愉しみ(より大きいとか小さいとかいうのではなくて)をもたらすものだといいたかったからで、これは若いときに読んだのとは、異なった種類の愉しみである。(中略)おとなになってから読むと、若いときにくらべて、より多くの細部や話の段階を味わうことができる(はずだ)。」と書いている。

初めて読んだときには、そんなものか、としか思わなかったのだが、その後、昔読まなかった(読めなかった)文学作品に再挑戦するようになって、改めてこの文章が腑に落ちた気がした。

もともと小説はそこまで好きというわけではなかったこともあり、ほとんど読まなくなって久しかったが、大学生になった息子が文学に興味をもつようになって、話をしているうちに、ふたたびそれを読んでみようという気になったのである。

あまりお金もないので昔買って読まなかった本をまずは読んでみようと思った。若い頃は、十頁読んでも面白くならない本は、たいていそこで読むのを止めてしまっていたから、実は読んでいない名作文学が実家には山のようにあった。SFやミステリのように買ったその日か翌日には読み終わってしまうたぐいの娯楽小説は、あまりに量が多くなりすぎて処分したものも多かった。それに対して、名作文学の類は、読んでいないので当然捨てることはできず、そのまま本棚の隅に眠っていたので、本棚には読んでない本の方が多いくらいだった。

そもそも名作文学と呼ばれるようなものは、最初の十頁を読んで夢中になるのにも経験が必要であるということが、十代のわたしにいちばんわかっていなかったことかもしれない。むかし投げ出した名作文学は、今読むと、どれも出だしからすこぶる面白かった。

十代のころは、書いてあることがよくわからないことが多い。それは、書き手が自分の常識にしたがって書いているからだ。あるいは翻訳者が古典を自分の(現在の)常識にしたがって現代人に理解可能なように翻訳しているからだ。十代のころはまだ、この常識(の多く)を共有していないのでわからないのである。

確かに読みにくい文章というものはあり、わざと読みにくい文章を書く作家だっているが、その前提にあるのは、ある種の文章を読みにくい文章と作家が思っている、というその常識である。したがって、その常識が共有できれば、難解な文章も難解ではなくなる。少なくとも理解可能な文章であるはずだという認識において難解ではなくなるのである。つまり、どんなに難解な文章であっても、同じ人間が他人に理解させるつもりで書いたということで、かなり親近感がわくのである。

回りくどい文章になってしまったが、要するにそれがカルヴィーノのいう大人の読書ということなのだとわたしは理解した。そして、それができるようになったことで、須賀敦子も(それ以外の文学作品も)また理解できるようになったのだろう、と思ったのである。


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