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Meはなにしに地球へ?:序章

自分はなぜここにいるのか


そう考えたことがある方は多いのではないかと思います。
なんで生まれたんだろ?なにがしたいんだろう?
私はいつ頃からか、なにかしたいことがあって自分の意志でここに来たと思うようになりました。ただその「なにか」を忘れてしまっているような気がすると。その忘れている「なにか」はなんだろうと気にかけつつも日々の社会生活の中で大抵は忘れて過ごしていました。
そろそろ思い出そう。
ある日、力むでもなくそう思い、そこから私の自分自身への探究が始まります。

こういう話は兎角「スピリチュアル」という言葉でまとめられると思います。
日本でのスピリチュアルという言葉の受け取られ方の微妙なこと!
正直言えば私自身、「スピリチュアル」に対してあまりいいイメージがありません。
自分はなぜスピリチュアルという言葉にいいイメージを持てないのか考えました。
一番はその言葉の周辺を「うそくさい」と感じていること。
二番は関わっている方々が本来の自分と違うような、無理をしているように見えること。

どうやら私は「うそ」「自分と違うことをすること」への拒否感があるようです。

私は物語を描いています。
傍から見れば、「物語」「うそ」・「虚構」に見えるのかもしれません。
でも私にとっては、というか、たぶん物語を描く多くの人にとって、物語は「うそ」や「虚構」ではありません。
描くスタイルは人それぞれなので皆がそうなのかは分かりませんが、少なくともある一定数の作家はどこかから何かを受信して描いています。
ああこの話をいわゆるスピリチュアルっぽくなく説明することのなんと難しいこと・・・。
科学で説明できないものはうそ、と思っている時期が私にもありました。
いわゆる科学教信者です。でも冷静に世の中を見渡したら科学で説明できることはほんのわずかです。現時点で人間が科学的に説明できないことは山の様にあります。
例えば私の父は亡くなる日の朝、私の夢に出てきました。
当時離れて暮らしていた私は父がそんなに具合が悪くなっていると全く知りませんでした。夢の父はとても楽しそうに笑っていました。私は目が覚めた途端、母に電話をしました。母は「ああ、あんたんところに行ったんやね。言わんでおこうかと思ったんだけどもう長くないって先生に言われたのよ」と言いました。ちょうどその頃私は仕事が忙しい時期が続いており、まったく帰省できておらずしばらく電話もかけていませんでした。
私は母の言葉をああやっぱり、と受け止め、母も父が私の夢に出てきたという話をああやっぱり、と受け止めました。
父はその日の夕方亡くなりました。
この手の話はどこにでもある、よくある話だと思います。
多くの方が何らかのうまく説明できない体験をしています。
でも科学的に証明はされていません。だいたい気のせいとか偶然などで片づけられるような気がします。
私はこういったことを気のせいとか偶然として受け取ってはいません。
まあなので、「スピリチュアル」という言葉とその周辺の人々を遠目に見つつも、目に見えない、具体的に言い表しにくい事象があることは受け入れている、という立場です。

私は物語を描きます。
考えて描いているようで、実はあまり「考えて」いるわけではありません。
物語のカケラがどこかから降ってきてそれを受信しているような感じです。いつ降ってくるのか、なにが降ってくるのか、自分では分かりません。
突然知らない人物や知らない場面が降ってきて勝手にしゃべり出します。
結構子供の頃からそんな感じだったので、それが特段不思議なことだと思ったことはありませんでした。
いつも突然やってくる物語のカケラは私の中では海岸で拾う手紙のようなものでした。
ただ、時々考えました。この人物や言葉、場面はどこからやってくるんだろう?と。
私は何を受信しているのだろう?と。
いったい、なんのために?
どうやら自分はパラボラアンテナだ。何かを受信している。
いったい、なぜ?

誤解しないでいただきたいのですが、私がなにか選ばれし者、みたいな話ではありません。
ただなんとなく、どうもこの受信は自分の役割なんだろうみたいに感じていました。自分は自動書記係なのかなという風に思っていたこともあります。
みんなおそらく何らかの「役割」「係」なのでしょう。
私の役割を自覚してちゃんとその係を全うしてみたい。

そんな思いから探究が始まりました。

Meはなにしに地球へ?

このお話しはその探究の一環で松村潔さんにヘリオセントリック占星術の個人リーディングをしていただいたものです。

つづきます。


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