「キャリコンは資格ができる前にも、実はいたのだ」の巻
こんにちは!火曜日はキャリアコンサルタントのまりりんの日。
前回は子供のころの話を書き、「最初から人の話が好きではなかった、
むしろ人は苦手だった」ということをお話しました。
このあとは短大に入り、サザンオールスターズとキャンパスをともにし、
日本ビクターという、のちに映画になる会社に入り、人材会社に入り、
昭和のセクハラ・パワハラを体験するのですが、時効ですからこれからこのブログで本邦初公開で書いていきます(笑)
事実は小説より奇なり!!
こういう話は体験者から聞くことも、令和・平成のみなさんには
役にたつ(笑) ただ今日はテーマが違い、キャリアコンサルタントの仕事にふれさせてください。
私は25才から50才は人材会社で毎日仕事を探しに来る応募者の面接をし、仕事の紹介をし、仕事先でうまくいかなければ人間関係の相談にのり、いわば企業と人の調整をしてきました。今から40年前ですから「キャリアコンサルタント」と名乗ることも、その自覚も正直ありませんでした。
しかしそのころは私のように人材会社で実践している人以外にも、ハローワークという国が行っている機関で同じように職業相談に乗っていました。
つまり資格も言葉もなかったけど、キャリコンサルタントはいたのです。
当時は右肩上がりなので、学校を卒業すれば正社員になり、まじめに働けば管理職になり、そのまま思考を止めれば(私の考え、みんなではない)定年まで勤められ、「退職金と年金で幸せに暮らしましたとさ!」という時代
でした。
そんな時代に「就社」でなく「就職」、つまりやりたいことをしたいと考える人は少なく、派遣で働くというと、「そんな不安定で将来がみえないものにつくなんてやめとけ!!」とご両親に言われ、泣く泣く私の紹介した、本人がやりたかったことをあきらめる人が多かったのも事実です。
しかしその後、バブルの崩壊、派遣切り、そしてコロナという、オリンピックが自国で行われチケットも勝ったのにテレビで観戦するという、世の中
何が起きるかわからない。という時代に突入していくのです。
年功序列は崩壊し、就職氷河期時代は「あえて派遣」でなく、「仕方なく
派遣」を選び、シニアは役職定年で給与は半減、会社でも家でもホンネがいえないという時代になったのです。
でも皆さん、安心してください。そんな時代のために、まりりんは産まれたのです(笑) まりりんはそんな状態の解決支援をし、世の中を明るくして
いきます。なぜそう言えるか? では根拠を話しましょう。
ちょっと自己開示しますね!!
23才結婚するまでの夢は「お母さんになる」でした。
だから早く結婚退職した・・・
でも24才、25才で流産を繰り返すのです。
今なら方策はあったのかもしれませんが40年前は
「原因不明です、母体に原因があるのでは?若いんだから、また
できますよ」という言葉に人生を1回投げました。
そして、がむしゃらに働くということになるのです。
あつ、かわいそうに見えます?
いえいえ、私は今幸せです。
だって子供はいませんが、世の中の子供たちを愛し、そんな彼らのキャリア支援だけでなく、今まりりんの守備範囲は「ゆりかごから墓場まで」仕事
以外の「生きる」もカウンセリングして支援しています。
なぜできるか?といえば、いっぱい失敗して挫折して、悩んでだから
フリーランスできてるんです。
というわけでキャリコンサルタントは昔からいたけど、名前がなかった
その後社会の要請にこたえて国家資格になった、というわけです。
では次回はその国家資格ってどのように受験するの?あたりを書きますね。
今日も読んでくれてありがとう!!
面白かったら、お友達にURLコピペして送ってね(笑)
また来週!!
ちほみさん、よろしく!!
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