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外国語で、その国の人間と話すこと

英語を完璧に話せないために、アメリカの友人から馬鹿キャラと思われている節がある。第一言語に胡坐をかいている者どもには、第二言語を使いこなすことの困難さなど想像もつかないのだろう。本日はそんなお話。

アメリカで生活する中で、親しい友人も増えました。日本語を勉強したい、という友人も何人かでき、時々オンラインやテキストメッセージで日本語を教えたり、たまに英語を教えてもらったりしています。

しかしどうにもないがしろにされる機会というか、端的に言って「ナメられている」と思われるケースが時々あり、まあそれでも私は基本的にお人好しなので、いちいち気にしてはいません。しかしひとたび立ち止まり、それらについて考え出すと、何か煮え切らない思いが、煮え切らないまま煮立ってゆくのを感じます。

Case 1 意味不明な呼び出し

我々夫婦と親しくしてくれていたカップルが、少し前に破局しました。

双方とも我々夫婦の友人なのですが、振られた方(Aさんとします)から直接話を聞いてほしいとの申し出があり、私たちは車で2時間かけ、Aさんの住む場所を訪ね、破局の経緯について話を聞きました。このこと自体には、何の不満も問題もありません。

その翌週。振った方(Bさんとします)からも会いに来てほしいとの申し出がありました。

きっとAさんが我々に会ったことを聞きつけ、何か不安になったのだろう。我々はそう思いました。

季節は11月半ば。サンクスギビングという国民的連休とブラックフライデーを控え、皆が浮き足立っている頃です。ゆえに、会うのは12月に入ってからでも良いかと尋ねると、すぐにでも会ってほしい様子。ならば仕方がありません。Bさんも我々の大切な友人です。きっとAさんとのことについて、言いたいこともあるのでしょう。

当日の朝、念のためBさんに連絡を取りました。

「予定通り、午後1時からで大丈夫?」
「ごめん、2時からでいい? 昨日の夜飲み過ぎちゃって 笑」

ん? どこか釈然としないものを感じながらも、我々は1時間かけてBさんの住むアパートへと出かけてゆきました。

アパートに到着した我々を出迎えてくれたのはBさんと、そして正体不明の同居人、Cさんでした。

Bさんは言いました。「ごめん、寝過ごしちゃって飲み物とかも何も用意してないんだ」
構いません。そんなことは別にどうでもいいのです。が。

何しろ我々と初対面のCさん、喋る喋る喋る。Cさんは編み物が得意という話(手編みの帽子を我々にくれました)。Cさんの出身はアメリカではないので、我々同様英語を学ぶのに苦労した話。おススメの映画の話。Bさんの仕事の話。

ん?? ん????? なんだこの状況ゎ???????

Aさんとの破局についてBさんからの話を聞けるものと思っていた我々を襲った、完全なる不意打ち。Cさんが新しい恋人なのかどうかがはっきりしない以上、Aさんとのことなんかこっちからは切り出せない。無論、Cさんはどういう位置づけなの? などと訊けるはずもない。

2時間近くの世間話を終え、車内。我々夫婦は溜め込んだはてなマークを、道中にばら撒きながら帰路につきました。

俺ら、なんで呼ばれたの?

ひょっとすると、“呼んだら来てくれる“ということがBさんの安心につながったのかもしれないし、もしかしたら我々との予定をその日の朝まで忘れていたのかもしれません。

いずれにせよ釈然としない。

それ以降も、Cさんというのはいったい何者なのか、Bさんからの明確な説明はない状況が続いています。

Case 2 約束を忘れる。

先日ちょっと遠出をしたついでに、体調を崩したというAさん宅の玄関に、薬や食料を届けました。薬はAさんから頼まれたもので、食料は我々夫婦からのちょっとした好意です。

引き換えに、というわけでもないのですが、間もなく遠くに引っ越す友人へ向けた簡単なメッセージの記載をお願いし、専用の用紙を差し入れに同封しました。こういったメッセージを皆から集め、寄せ書きを作るためです。Aさんは我々からの差し入れを大変喜び、メッセージの記載も快諾。

ほどなくしてAさんは回復し、我々はメッセージをピックアップするために再び現地へ向かったのですが、我々はしばらく、アパートの前で立ち往生する羽目になりました。

きっとAさんは、約束の日時を忘れていたのでしょう。何度かテキストを送り電話をかけ、ようやく応対してくれました。

加えて、Aさんはメッセージ用紙を失くしていたことが判明。代わりの付箋に記載したメッセージを受け取ることとなりました。

……などなど、他にも相手のほうからお願いしてきたオンラインミーティングなのに、当日になって「忘れてた! ごめん今日は無理」とキャンセルされたり、努力して得た結果のTOEICスコアを軽視されたり、妙にこちらを子ども扱いしてきたりと、普段親しく接している中にも時折、ぞんざいな対応や敬意を欠く接し方が垣間見える瞬間があるのです。

あのさァ君たち、職場の同僚とか周りの友人にも、そういう態度取ってる?

とはいえ別段、我々が差別を受けているとか、傷つけられているとか、そういうわけでは全くありません。いちいち指摘して直してほしいと頼むほどのことかと言うと、そんなことを言って小さい奴とか思われたくもないし、ぎくしゃくしたら勿体ないしと、指摘もできないレベルの話なのです。

だったら我慢するしかないじゃんとか、アメリカあるあるとか、気にするほどのことでもないとか、お行儀の良いことを言う人格が私の中に現れてくるのですが、

あーもー、うるせえなー。


差別をしないのも人を傷つけないよう努めるのも、当たり前のことです。彼らは普段は当たり前のことができるとても気のいい友人たちだし、我々が彼らのことを大好きなのも事実なのですが、それはそれ、これはこれ。

話を進めます。

ずいぶん昔のテレビ番組に、「ここが変だよ日本人」というのがありました。スタジオには日本に住んでいる外国人の方々が多数いて、何か色々な話題について話すバラエティ番組だったと記憶しています。かれこれ20年も前の話ですね。

あの番組に出てくる、カタコトの日本語で熱弁する外国人タレントを面白がって見ていた記憶があります。

いやはや、当時は分かってなかった。

カタコトとはいえ、彼らにとっては第二言語や第三言語であろう日本語で、あそこまで熱弁出来ることの凄まじさを。

むしろ私は、彼らをおバカタレントみたいな見方さえしていたのですが、そのことのなんと愚かであったことか。

第二言語を話すことで生じる隙や間違いによって、その話者の知性にまで隙や間違いがあるかのように、我々は思いがちです。

しかし真実は真逆。

母語さえ喋れれば困ることもなく、趣味で外国語を学んでいるだけの人たちには、第二言語で日常生活を送る我々の苦悩など、真には理解できないのかもしれません。まあ、無理もないことだとは思います。

日本語を学びたいという彼らに、英語を使って日本語の機微を説明しようと試みる我々が、今のレベルに到達するまでに経てきた苦労がいかほどのものか。そんなことも知らず、ずいぶんと見くびってくれるじゃあないか、なんて、それでも時々思ってしまうのです。

話す言葉が完璧ではないから、誤った印象を抱いてしまう/抱かれてしまうこと自体は、きっと誰しも避けられないのでしょう。だからこそ我々は、声を大にして言わなければならない。

ナメるな!!!! こっちはお前らの言葉を学んで、お前らとちゃんと会話ができるように努力を重ねてるんだ!!! 


なんてことはしかし、面と向かって言えるはずもないし、別に言いたくもないし、実際はそこまで怒髪天を衝いているわけでもありません。私がナメられがちなのは言語のせいではなく単に人柄のせいかもしれないし、ナメられてさえおらずアメリカ人はこれくらい普通なのかもしれないし、私自身こちらに住むまではこんなこと、真剣に考えたこともなかったのですから。

では何が言いたいのかというと、我々がこれから日本に帰国した後、日本語に苦労している人を見かけても、決して間違った印象に囚われることなく、できれば助けになってゆきたいなぁ、と思ったのでした。

差別をしないのも人を傷つけないよう努めるのも、当たり前のことですからね。でも、当たり前のことができるというのは素晴らしいことです。生きていることが素晴らしいように。

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