ただただエモいだけ
2019/05/01 午前2時記す
クラブでオールしたのち映画館でコナンの新作を見て帰宅。生活リズムを狂わさないために15時ぐらいまでなんとか起きてそこから寝たものの、妹からの電話で24時に起きた。本来なら、5時ぐらいに起きる予定だった。まだ疲れが抜けていないのか、頭がぼうっとしている。
クラブやライブに行ったことのない友人と二人で22時ぐらいに入場した。デイタイムに行ったことはあったが、朝までクラブで過ごしたのは初めてだ。空虚な場所だなと思った。しかしそれでいいのだろう。タバコを咥えて踊り狂う若者たち。kyneのイラストがプリントされたオーバーサイズの服。YouTubeにアップされている有名な曲が演奏されるときにだけ皆が掲げるスマホ。いくつかのスマホで転倒しているライト。そのスマホのせいでステージ上で飛び跳ねるラッパーがいまいち見えないこと。表層だ。浅さしかない。その奥に大きな物語はもとより、データベースすらないのではないだろうか。ただ盛り上がりたいだけ。ただなんとなくお洒落に見られたいだけ。簡単だ。歌詞を覚えればいい。フォロワーの多いイラストレーターの(誰でも書けそうな)イラストがプリントされた服を着ればいい。歴史なんか気にしている人がいるのだろうか。いや、気にしていなくても、実はそこに歴史があるのだ。気づけていないだけだ。僕が昨日クラブで見たあらゆるファッションの中に、聴いたあらゆる音楽の中に歴史は存在している。
最近よく言っていることだけれど、素人の、つまり普通の(浅い)人たちの感覚に一定の信頼をおいてもいいのではないだろうか。ほんの一瞬の判断でいいなと思う服を、乗れる音楽を判断している。その一瞬に、流行だとか、誰かからどう思われるかなどという気持ちは存在していないと思う。そうであってほしいと思っているだけかもしれないけれど。僕は、僕自身の経験からそう思っている。瞬間的にほしいと思って買ったときには、いい音楽だなと思って体を揺らすときに、そんな気持ちは存在しない。むしろ、この服を買おうか迷っているとき、Hands Upと言われて手をあげるか悩んでいるときは、他者からの視線への意識が存在している。要するに、中途半端な浅さが嫌いだということだろう。表層と深層を自由自在に行ったり来たりできるようになることは重要である。
劇場版のコナンを見た。よりアクションが過激になり、物語としてはめちゃくちゃになっている。そしてそれをファンは受け入れている。そもそも劇場版のコナンはアクションを笑いながら見るものだという奇妙な現象が起こっている。おそらく製作者の側もそれを意識しながら作っている。あまりにも物語としては破綻しているからだ。
フェティッシュ、萌え、すなわちエモさだけの作品である。この三つはほぼ同義で、時代によってどの言葉がよく使われるかが異なる。強いて言えば、時代が進むにつれ、つまりエモいになるにつれ、使う層が広がった。言い換えれば、(その世代では)より一般的に使われるようになった。例えば、萌えという言葉は、オタクだけが使う言葉だった。その言葉を使ってるやつはキモいという認識が、少なくとも僕の周りではあった。しかし、エモいに対してそのような認識はない。ヤンキーからオタクまで誰もが使っている。ちなみに萌えを逆から読むとエモである。だからなんだ、と簡単に切り捨ててはならない。まだその理由をうまく説明はできないが、直感的にそう思う。話を戻す。
以下、フェティッシュ/萌え/エモさを感じた場面を列記していく。
園子の脚がアップになる場面。これまでの劇場版コナンでこんなにわかりやすく性的なフェティッシュを感じさせる作品はあっただろうか。線の太さが(それが悪いということではなく)気になったのも初めてかもしれない。まるで近年の劇場版ドラえもんのようだった。
園子がバンダナを外し、髪をおろしている場面。好きな人の前で、誰にも見せない姿を(意図せずではあるが)見せる。今作でフューチャリングされているのは、キッドでも京極さんでもコナンでも蘭でもなく、園子だ。コナンに関しては、もはやいてもいなくてもいい。この意味でキッドが蘭に顎クイしているポスターはミスリーディングである。一応その設定はあったが、ふりかけのようなものだ。
キッドが京極さんと対決する際に、ニヤリと笑う場面。これは前作で、安室さんがトンネルの壁を車で走る際に、ニヤリと笑う場面に通ずる。このニヤリは、狂気を感じさせるニヤリである。死を予感させる場面で、それをむしろ享楽し笑う登場人物に萌えるというのは割とあるのだと思う。実際に誰かに聞いてみようと思う。
コナンがビルから落下し、ハングライダーに乗ったキッドが救う場面。『天空の難破船』からの流用である。これまでの劇場版コナンでこんな場面があったなというのが多い。前述のキッドのニヤリもそうだ。この場面で、コナンが落下する必要性は全くない。なぜ落下にキッドが気づいたのかもわからない。とりあえずこの場面を入れておこう、ということだろう。キッドが警官に撃たれ負傷するという場面も物語を進める上で必要なかった。単純に、流れる血を抑え苦しむキッドを見せたかったというだけだ。
まだまだあるがこれぐらいで切り上げておく。先にこんな場面を入れたい、この場面があれば萌えてくれるだろうというのが決まっていて、それが全て組み込まれるように物語が作られているような気がする。そう考えると、物語が破綻しているのも頷ける。まるでPVのような、パッチワークの作品だ。もはやそれに文句を言っても仕方がないのだ。いつからコナンが物語はまるで無視の、ただフェティッシュ/萌え/エモさを詰め込んだ映画になってしまったのか振り替えなければと思う。もしかしたら『君の名は。』よりも前なのかもしれない。