小説『サラバ!』を読んで、星野源『ばらばら』を解する
西加奈子著『サラバ!』という小説を読んだ。
直木賞を受賞した有名な小説だが、私個人は本をたくさん読む方ではなく(仮にもライターを名乗る活動をしながら本を読まないだなんて、恥ずかしくて本当は隠したい)、
テレビで見るまでその存在を知らなかった。
昔は物語に没頭するのが何より好きだった。全く違う人生を生きているかのように、未知の世界にワープできてしまうのがいい。
その時だけは現実から抜け出せたから。
本書の中では、「自分の輪郭がなくなっていく」と表現されている。
うわ、それだ!って思った。
(一瞬で追体験できてしまう見事な言語化よ・・脳内で反芻し余韻に浸った)
忙しさにかまけ、読むという能動的な行動よりも、ただ眺めるだけで勝手に話が進んでいく、テレビドラマや動画に時間を使うのが習慣になって、大分経った。
手っ取り早くラクに楽しめる、魅力的なコンテンツは今の時代溢れかえっている。
自らはなにも生み出さず、誰かが創ったものをただただ消費する。
その罪悪感を感じながらも、一度物語の中に入るとそれすらも忘れられてしまうのだ。
話を戻そう。
西加奈子さんを知ったそもそものきっかけは(そこから‥?と思われるだろうが言わせてえぇ!)、某テレビ番組の対談だった。
私の好きな椎名林檎氏の出る回だったから、きっちり録画までしていた。
対談では、小説家と歌手の表現の違いなど色々な話をしていた気がするが、ぶっちゃけ内容はあまり覚えていない。
ただ、「サラバ!」という本のタイトルと、あの林檎氏が若干緊張の面持ちで尊敬の念をもって接していたことを覚えている。
そして、西氏がつけていた「それまで見たことのない個性的な、耳たぶの表と裏側2つの部品で挟むようにして装着するピアス」がとても素敵だったこと、が脳みその端にピタッと張り付いていた。
そして10年ぶりにスマホ越しで見た西氏は、また異なるピアスだかカフスを付けていた。やはりどうしても素敵だった。
番組の放送後、サラバ!なる小説が気になりつつも先延ばしにしているうちに、10年ほど経った。
10年も経ってから、図書館の棚に見つけたとき、私は自然と手に取っていた。
前述の通り、しばらく小説は読んでいなかったが、いざ読み始めると一瞬で引き込まれ、先へ先へとページをめくった。
本の内容は、終始ある男性の視点から語られ、彼の成長にともなう感情の機微とともに流れ行く人生を順に追っていく自叙伝的な話で、どうやら作者・西氏の自伝的作品でもあるようだった。
河の流れのように決して止まらず変化し、一方向に流れ続ける人生、その一瞬一瞬。
語り手である主人公の人生につきまとう不安と影、受け身ながら世渡り上手な特性と性格、輝かしい青春とその終わり、家族という最小単位の社会が自分の理想と相反するものだった子ども時代の無力感、など一つ一つのトピックが、なんでかとてつもなくリアルに感じられた。
そして私個人の経験や過去の感情とリンクする部分が多いのも、またページをめくる手を動かした。受け身で、人に怒ることもできない臆病な性格の主人公が、自分自身と重なった。
主人公は終盤、今まで自身の人生をさんざん振り回し(たと思っている)、周りを巻き込んでおきながら、いつのまにか”軸”を見つけ勝手に「大人」になった姉に対し、「神にでもなったつもりか」「姉のせいで俺はどれだけ振り回されてきたか」と怒りをあらわにする。
30を過ぎて、かつての栄光を失くし、何も手に入れていない自分。
幼少期から常に空気を読み、受け身でいることが生きるために必要だった彼の「お前のせいで」という、どこに向けていいのかわからない怒りと動揺が胸に痛く、つらい場面だった。
そんな彼に、姉は言う。(だいぶ中略)
「あなた今揺れている」
「あなたが信じるものを、他の人に決めさせてはいけないわ。」と。
ハッとする。
偽りのない、まごうことなき真実。
真実であるから信じられる、その言葉は温かかった。
けれどハッとする言葉と出会ったからと言って、人はすぐに変わるわけでもない。
そんなリアルが正直に描かれているのが、とても真実味があってよかった。
だがある出来事をきっかけに、主人公は衝動に駆られ、かつての親友ヤコブに会うため、エジプトへ発つ。
そして奇跡的に感動の再会をするのだが、二人の間には長い長い時間が隔てた見えない壁ができていた。
言葉が通じなくても二人だけの言語で不思議と通じあえた、子どもの頃の二人と大人になった今の二人は、もう違う場所にいた。
これを読んだとき、浮かんだあのメロディ。
「世界は一つじゃない ああ このまま ばらばらでいて」
「世界は一つになれない ああ このまま どこかにいこう」
『サラバ!』の下巻を読了した同じ日に聴いていた曲が、奇しくもリンクした。
2024年大晦日の紅白歌合戦、無言のメッセージを残した星野源の歌『ばらばら』。
見る者の心を突き刺すような眼差しで歌ったその曲には、
決して一つになれない、ばらばらな世界を
嘆くような、あきらめるような、怒っているような、そんな空気感が漂っていた。
彼の創ったものが彼の手から離れて、本来の意図とは全く逆向きの解釈をされてしまう、という可能性があると、突きつけられたこと。
彼の人生においてきっととても大事な位置にあり、生きている証のようなその曲を、そう扱われたこと、その虚しさが理解されないことに悲しんでいたのだと思う。
世界は一つにはなれない、かもしれない。
信じるものは、皆ばらばらだからだ。
でも、ばらばらであって然るべきだとも思う。
そうなると、
やはり戦争はなくならないのか、人と人はわかりあえないのか。
と無力感に沈んでいってしまいそうだ。
では『サラバ!』では、どう解されたか。
二回目になるが、話を戻そう。
長い長い時間の中で変わってしまった歩とヤコブ、二人の間にある隔たり。
それを感じる無言の空間を割くように「サラバ!」とヤコブは言う。
「サラバ」は、アラビア語でさよならの意味の「マッサラーマ」と日本語の「さらば」を合体させた、国籍も宗教も言葉も違う、二人を繋いできたお互いだけが分かる魔法の言葉だった。
「また会おう」「グッドラック」「元気で」
色々な意味を孕んだ(はらむには、宿すという意味もある。ふつう含むと言いがちだが、作中のこの言葉をあえてここでは使いたい)、この魔法の言葉は、作中で一度だけ、ナイル河から飛び出てくる白い化け物として二人の前に現れる。
化け物は、それまでの自分を形づくってきた、止まることなく動き続ける大きな時の流れのことでもある。
化け物=サラバは、動き続ける時間を肯定している、つまり、自分が生きることを選択し続けていること、生きることを信じている言葉なのだ。
親友ヤコブと歩の二人は、「サラバ!」と何度も言い合う。
その言葉を共有する瞬間、二人の間に壁はなくなっていた。
サラバは別れの言葉であり、と同時に、生きてまた会う、だから生き続ける、そんな互いまたは自分自身を信頼する言葉だった。
二人は子どもの頃と同じように、魔法の言葉で一つになっていた。
私たちは、一人と一人。
私は私、あなたはあなた。
普段はばらばらで、違うものを信じている別のもの。
しかし、あるたった一つの「なにか」を同じ気持ちで共有できたとき、
私たちは、きっと一つになれるのだ。
サラバ!は読んだあと、そんな小さな希望を胸に灯してくれる小説だった。
小説『サラバ!』は、ある意味朝ドラっぽいかもしれないと思った。
一人の人の人生を順を追ってストーリー化しているため、たくさんの魅力的な登場人物が出てくる上に、
基本、会話が関西弁なのでその軽快さもストーリーを引き立てている。
さらに、主人公視点で話は進むが、その沢山の登場人物の背景も徐々に明かされる。なので決してひとりよがりなお話にはならず、様々な異なるタイプの人生も同時に見ることができる。
その一人ひとりの人生が複雑に絡まり合い、影響し合う。でもファンタジーすぎず、人臭いリアルがしっかりとある。まさにリアルとフィクションが混ざりあった絶妙〜なバランス感はひとつ見どころだ。
頑なに持ち続けているあの頃の子どものままの自分、というのが私の中でキーワードだった。(これは私が勝手に解釈したことば。)
主人公はかっこいいスーパーマンでも、名探偵でも、はたまた悲劇のヒロインでもない。良い時も悪い時も経験し、揺れ動き、長く見失っていたけどまた取り戻した、そんな全くもって「普通の」人なのだ。
だからこそ、多くの人に寄り添う物語なのではないだろうか。
30過ぎて段々わかってきたのは、
何事にも、今だった、という出会いのタイミングがあるということだ。多分10年前に読んでも理解できない表現が、今なら受け止められるように。
全然前に進んでいないように思えても、一瞬一瞬の時間を積み重ねた分だけ私たちは変化している。それが思い通りでなかったとしても。
その積み重ねの先に今があって、すべてはこの、今に向かって動いていたのだと、思える瞬間が人生にはある。
というわけで私はバチコン今だった。
けれど、もっともっと前からこの本はそこにあった。10年間、待っていてくれた。
この作品は作中のどこかしらに、読み手自身を映し出すポイントがあると思う。なので、拙いこのレビューを最後まで読んでくれたあなたには、ぜひ手に取ることをオススメしたい。
最後に
あなたの人生はあなただけのもの。
誰にも決めさせてはいけない。
私は私。あなたはあなた。