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2024年のお正月

2023年はこれといって大きな変化のない年だった。何か変わったことをしたといえば、13年前に急逝した親友の墓参りに新潟まで出かけたことぐらいだろうか。なんだか、そのご家族には悪いことをしたような気にさせられた。私が出向いて、親友の思い出話をすればするほど、残されたご家族の寂しさや悲しみを掘り返してしまった気がする。とはいえ、私自身が気になっていた胸のつかえのようなものは解消された。その親友が亡くなる直前、横浜で会おうという誘いを断ったままのことだったので、亡くなる直前に彼には寂しい思いをさせたのではないか、と気になっていたのだ。それでも、新潟のご家族と交流を開始することができたのはよかった。私の話で忘れていたご家族の寂寥感を引き出すことになりはしないかなどとためらいも覚えてはいるが、今年の春あたりにまたお邪魔しようかなどと考えている。(写真はそのご家族とご一緒した料亭のお庭です。)

それ以外は仕事一筋だったかも。単純に仕事が楽しかったからなのだが、振り返ってみると、自分自身のことをないがしろにしてきたような気にもなる。何せ、人一倍働いたからと言って、それが当たり前のようになっているから、これといって自分の身には変化を感じない。英語の勉強はそれなりに成果が出てきたが、このまま継続しようという感じ。

新年は4日・5日と休みを取ったから、8日まで休み。久しぶりののんびりした正月である。年末に疲れて息切れしていたから、ゆっくり休んで心機一転と考えていたのだが、どうも自覚していた以上に疲れが溜まっていたらしい。いざ休んでみると、休みっぱなし。食っては寝てばかりの生活を1週間続けている。とはいえ、毎年こんな調子だなと自分をいたわってはいる。生産性や成果創出に追われた挙句、自分の身にさしたる変化もないことに気づいたことで、いまの生活に少し嫌気がさしているのかもしれない。

さて、毎年この時期に旧年を振り返って、それをもとに何かを考えて、新年に生かすような動機づけとしてみたいのだが、今年は今のところ何も浮かばない。仕事と家と、週一回通ってきたバーと、その3か所ぐらいの生活を繰り返してきたところ、何もこれといった楽しみや変化には結びつかなかったということ。気になっていることはいくつかあるのだが。

一つは自分の将来というか、そろそろやってくる老後のこと。独りで暮らすのか、それとも遅ればせながら、だれか伴侶をみつけるか。どこに住むのか。あと7年ほど働くとして、具体的に何がしたいのか。何を学び、備えるべきか。会社ありきの働き方にも疑問を感じている。「伴侶」以外についてはある程度の計画はできそうである。経済的なことについては概ね問題なさそうだが、理想としている神戸と東京の二拠点生活を実現するためには、やや工夫が必要そうである。

もう一つは親のこと。いまのところ、すこぶる健康な親(いまだに仕事もバレエレッスンも続けている)も、やがては介護という話にもなるだろう。これについては、どうなるかはわからないが、仕事で社員の介護問題に接する機会があるので、情報だけは持ち合わせて備えている。

考えてみれば、これ以外にもいろいろあるだろうが、大きなところはこの二つだろうか。今は、これらが動き出す前の嵐の前の静けさのうちにあるのかもしれない。いずれはこれらが否応もなく、降りかかってくるのだから、何もすることがないというのは今しばらくだけ感じることができる特典だろう。

そんなわけで、この無為に過ごす時間も、二度とないかもしれない大切なものに思えてきた。とはいえ、あと3日間、ジムで泳ぐのだけは必須だな。なにせ、このぐうたら生活で体重が最高記録更新中で、会社の特定保健指導を3年連続で受けている。そうはいっても、体重以外は何も問題なく健康だから、この正月をのんびりと過ごすことが正当化されたところで、友達から来た年賀状にあった「脂産家」一直線である。来世までにはせめて体重だけでもコントロールしてみたい。

こんなわけで、今年は年賀状を書きそびれてしまいました。この場で新年のご挨拶とさせていただきます。本年もよろしくお願い申し上げます。

神戸方面の友人の皆さん、今年はまずは2月にお邪魔します。また機会があればぜひお付き合いください。よろしくお願いいたします。


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