
アイドルに対して、我々はどこまで人生を重ねて視るか?
ずっと何年も仲間内では「推しって何だろう?」という話ばっかりしてて、で、新たに出会ったファンとも「推しって何なんですかね?」なんて話してて、はい、推しって何ですか?
いや、それはもう、何十時間も考えたから、何度かnoteに書いたし、自分なりの答えも持論もあるんです。で、語り合った彼らにもそれぞれ答えがあるはずです。でも最近、アイドルの現場に行く機会が増えて、再び考えるようになりました。
色が重なり合った濃い部分
モチベーションや熱量っていうのは、結局、自分が推しコンテンツに対してどこまで人生の意味を重ね合わせて視るか、ってことなんでしょうね。自覚的かどうかに関わらず。
好きだからとか、可愛いからとか、パフォーマンスとか、グループの軌跡とか、色々フックはあると思うんですけど、そもそもは他人じゃないですか。(そりゃたくさん会いに行けばこれが人間関係に変化することもありますが)否定的な意味ではなく、前提として言わせてください。
その、他人、いわゆる自分の外側にある人格や物語や作品に対する、主体的な態度、主観的な意味付けによって、その人にとっての"推し"の価値が決まるということです。
たとえば、布教する/されるの話になると、どんなに熱弁されても刺さらないものは刺さらないじゃないですか。自分の外側の世界の話に聞こえますし。人によってコンテンツの楽しみ方も推し活の嗜み方も違くて、グループによってファン層がまるで違って文化も違います。推しをたくさん持てる人もいれば、全てをひとりに捧げる人もいるのは、それってつまり、外にある物語に自分の人生をどう重ね合わせるかって話だと思います。より可愛いから、より歌が上手いから、より人気だから代替可能なものでは絶対なくて、自分で出会って前のめりになって初めて意味を持つはずです。ファンにとって推す対象は生活のレイヤーであり、アイデンティティであり、ユニフォームだから、誰かの手でとっかえひっかえすることはできません。(なのに「レッツ推し活」とか言ってビジネス的にパッケージングされるからその風潮に反発があるのでしょうか?)
つまり布教とは、推せるポイントをどれだけ伝えられるかではなく、その人の主観的な意味付けをどこまで喚起するかの勝負であり、いや勝負ではなく、種を蒔く程度にしておいて、俺ごときが他人の心の向きを変えることはできないから、はい、もう、ファンの集まりの中で違う界隈のグループを宣伝するのは極力やめようと思いました……(どうした?)
なんていうか、人が大事にしているものとは違う文化や価値観を提示すると、何かが否定されたり傷つけられたと受け取られる場合もあるくらい、推しという概念は宗教的でもセンシティブでもあると思うのです。SNSを見れば、運営やアンチ、やらかしてるファンに対して、自分ごとのように怒っている人たちがたくさんいて、常に誰かが争っています。どのファンコミュニティにいても、いつもSNS荒れてるからやだな~って思ってました。「好き!!」「素晴らしい!!」だけでいいじゃん、と。でもやっとそれが飲み込めたのは、それが、各々の人生のためにやっていることだと気付いたからです。我々は生きるためにSNSに投稿するし、生きるためにアイドルを推している。文字通り、その人にとっては自分ごとなのだと思うし、意味付けが違うから起こるギャップは山のようにあります。
もちろんシンプルに、数字を回すとか、トレンドに入れるとか、CD配るとか、拡散するとか、それが推しのためにもなって、知るべくして知る人の元に届いて、ファンの生き甲斐にもなるなら、win-winだし、踏み絵を強要しないなら基本的にはいいことじゃないかなぁと思います。
持続可能な推し活
去年、キャパを超えて(←重要)毎週末のように遠征してたら、最終的に推しを見ても「わ~、出てきた~」くらいにしか感じないくらいに麻痺してしまい、以来、せっかく好きなものに出会えたのにそういう結果になったのは失敗だったなと思って、ファンである自分をかなり俯瞰で見るようになりました。
力尽きたのは、もしかしたら動機や意味付けや人生におけるウェイトが、毎ツアー全通するような人に比べたら弱いんだろうなぁと、もしくは回り始めた車輪を漕ぐのが下手だったんだなと今では思います。でもそれが悪いことではないし、定義されたり真似したりするのではなく、それぞれが手に持てるサイズの推し活をすることが結果的にSDGsなのです。今は、何でもかんでも行きたいモードじゃなくて、行ける時に行こ~っていう感じです。それはある種、漠然とした「ファンとは何たるか」のフレームを外して、周りの人に追いつくことを諦めた結果だと思います。
よく、「周りに比べて自分は熱量が持てない」と落ち込んでいる人を見るけど、それは、コンテンツに自分を重ねたり役割を見出すのが得意な人がいて、そうでない人もいるってだけの話だから、その人にとっては、引け目を感じなくても十分、コンテンツに触れることで満たされてるんじゃないかなと思います。
いつか全てが終わるとしても
先日、日本武道館で行われた、アンジュルムの川村文乃さんの卒業コンサートを見に行きました。そのとき感じたことの中から、ここで特筆したいのは、終演後のとある場面です。
川村さんは15年アイドルをしてきて、アンジュルムで7年半活動したあと、この日の公演をもってグループを卒業、芸能界を引退することが決まっていました。すべての曲目が終わり、最後にひとりで登場し、卒業のドレス姿で会場から大きな声援を受け、その全方位に手を振って挨拶を述べた後、突然、煙の中に消えました。
比喩ではなく、本当に突然、ステージ中央に煙が立ち込めて、何が起きたのかと思った瞬間、もう、姿が消えていたのです。普通にステージから捌けていくのが通例な中、もう二度と表舞台には姿を現さないアイドルの、最後のお別れとしてはショッキングなまであり、会場がどよめきに包まれました。そして流れる終演アナウンスとの落差によって、本当に全ての活動が終わったことと、我々が現実世界に戻ったことを一瞬のうちに理解させられました。
その後、会場のどこからか、ファンが絶叫する声が聞こえました。「川村文乃さん、今まで本当にありがとうございました!!!」
終演後、もう煙に消えてしまった推しメンに対して絶叫する声を聞いて、もう2度と彼女を光には知覚できないとしても、彼女がここに残した全てと、彼女たちとファンがこれまで積み重ねてきたものは絶対消えないし、この日を表紙として永遠に読み返せる物語になったんだな、と思いました
— まき (@angel_and_smile) November 28, 2024
人生をアイドルとして捧げること、そしてその人生をファンとして見届ける時間がいかに貴重か、儚いかということに思いを馳せてしまって、その方と推しメンの関係性というのはとても価値があるものだったんだなと勝手に感じました。絶叫した声に続いて、周りの客席からは拍手が起こっていました。そんなに想える人に人生で何人出会えるでしょうか?そして、今自分が推しているメンバー、享受しているもの、こうして生きていることすらいつか終わることを思い出して、たまたま重なり合ったそれぞれの人生が、それぞれの角度から反射してひとつの瞬間に輝きを放つのだと、二度と来ない時間を大切に生きようと思いました。
偉大なる職業、アイドルに感謝を。