鬼才・風雲児と呼ばれた男(2)

「鬼才」「風雲児」と呼ばれた飯野賢治。
いわゆる「エネミーゼロ事件」によって、更に業界の注目を浴び、一躍時の人となった。僕はそんな飯野賢治が、まだ無名だった時代に共に仕事をし、有名になってからも多少、親交を持った。
2025年2月20日は、飯野賢治氏が亡くなってから13年目の命日だそうだ。
それを機会に彼が世に出る前、そして世に出始めた頃の、僕が記憶しているエピソード(決して多くはない)を書き綴ることにした。
ファンが知る飯野賢治ではなく、いかにも生意気な若造とも思える、楽しかった若かりし頃の飯野賢治のことを話したい。

飯野くん(こう呼んでいた)と僕は、まだ20歳になる前に下請けの小さなゲーム制作会社の同僚で、わりと有名メーカーのゲームソフト開発に携わっていた。
取引先には、バ○ダイ、ジャ○コ、アスミ○ク、学◯、徳間書◯など、百花繚乱・群雄割拠のゲーム黄金期を思わせる名が並んでいた。
当時開発していたゲームのサウンドは、ほとんど一人の作曲家に外注しており、その作曲家から送られてきたデモテープを聴いていた時のこと。
「こんな曲より俺の方が全然いい曲作るから、こっちを採用しなよ!」
と言って、キーボードを弾き始めた男。
何年も依頼してきた作曲家を差し置いての、この男のこのセリフ。この行動。
もちろん飯野くんである。入社してまだ1ヶ月にもならない頃だったと思う。
彼は「型破り」だし、「声も態度もでかい」。そんな男だった。

自分の持ち物に「E-no」と書き、先輩の企画書にも平気でダメ出しをする男、飯野賢治。そんな彼は僕が思うに自分の中での判断基準や好き嫌いが明確で、己のセンスや知識を信じていたことは確かだ。と同時に自分が得意なこととそうではないことも明確に分類していたように思う。
企画やサウンドに対しては、それが目上の者の仕事だとしても納得がいかなければ遠慮なく「ダメだよ、これじゃ」を突きつける。しかし、グラフィックに関してダメ出しをするような場面をあまり見た記憶がない。
自分が得意ではないことが出来る者に対して一定の敬いがあったのかもしれない。

また、こんなエピソードもある。
僕らが勤めていたゲーム制作会社の社長の人脈なのか、ある日、ナ◯コの野球チームと試合をすることになった。僕らの会社は全員集めても10〜11人程度の人数だったため、当然飯野くんにも試合に出るよう要請があったが、彼は断固としてそれを拒否し、「俺はキーボードを持っていってナムコのゲームサウンドを応援歌として演奏してやるから」と治外法権的なカードを持ち出して来た。
僕は即座に「じゃあ、俺はドルアーガのBGMで頼む!」と飯野くんが試合に出ないことを認めた。単純である。
試合結果は詳しく覚えていないが惨敗だったことは間違いない。我がチームは野球経験のない者だけがヒットを1本打った以外、安打はなく、守備の方は、出る投手出る投手、清々しいほどに打たれまくった。
ナ○コには甲子園経験のある投手もおり、まさにリアルナ◯コスターズを思わせる選手層。
対して我がチームは、4番打者を僕に任せるような、トレーシングペーパー並みにペラペラの選手層。僕は無安打だったが「豪快!スイング賞」を受賞した。
いや、そんなことはどうでも良く、脱線した話を飯野賢治のことに戻すが、彼は運動は得意ではなかったのだろうと推察する。
しかし、得意なことに対する絶対の自信がある彼からは、苦手なことをマイナスとする空気は全く伝わってこなかった。
「得意なことや好きなことに対する自信」というのは「不得手なことへのネガティブ」を打ち消してしまうことを彼は体現していたと思う。

やはり飯野くんとのエピソードは決して多くないものの、短く簡潔にまとめることが出来ない自分の文才に絶望しつつ、次回へ続きます。もう少しお付き合いください。

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