![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/70675806/rectangle_large_type_2_b1718e2b84b4dde81e8d4aa5a76255c6.jpeg?width=1200)
残りワインがゆらめくせいで【ショートショート】
このボトルを開けたのは、もう何週間前のことだろう。
あの日はいつも通り2人で映画を観て食事をし、その後ちょっとだけ私の部屋で飲み直そうということになった。
「就職おめでとう」グラスを軽く傾けながら、屈託のない笑顔で君は言う。
「ありがとう。でもめでたいかどうかは、正直まだわからないけどね。すごく厳しいお局様が仕切ってる職場かもしれないし」
「またそういうひねくれたことを言う。あなたなら大丈夫。のん気さと図太さは俺が保証するよ」
「ああそれはどうも。って、全然嬉しくないし」
いつもこんな調子の君と私の関係は、以前は同じ会社で働く同い年の仕事仲間だった。
私が派遣社員として働き始めてから丁度1年経った頃、君が大卒の新入社員としてやってきた。部署では私が1年先輩だけど、君はれっきとした正社員。社員同士なら先輩後輩は歴然とした上下関係だろうけど、君と私には上も下も男も女もなくて、フラットな友達みたいになれた。
いつからか、休日には時々2人で映画を観に行くようにもなっていた。言うならば「2人映画同好会」。それは私が契約満了で会社を去り、派遣先が別の会社になってからも変わらなかった。
「派遣より、正社員の方がやっぱり良いよ。色々守られるし、年収にも差が出るし。この先の人生まだまだ長いんだから」
急に上から目線の君。普段はわりとのんびりしてるし、ふざけたことばっかり言うのに、根っこは保守的で、すごく真面目。そんなところが好きなのは、秘密。
「人生長いって言うけど、私の仕事人生はどうかしら。どこかの御曹司と、そのうち結婚するかもしれないし」
「あれ、そんな相手いるわけ?」
「いるよ。まだ見つけてないだけで」
「何だよ、それ」目を細めてハハハッと笑う、その笑い声が好きなのも、秘密。
「だけど、今回決まった会社は必ずしも土日休みじゃないから。だから映画を観に行くの、今までより少し減るかも」
今日最も言わなくちゃと思ってたことを、出来るだけ自然に、さり気なく言ったつもり。
さあ、君はどう出るの?
「ああ、それなら俺も4月から東京なんだ。本社の営業本部」
何?それ。
秘密にしてた?
ずるい、そんなの。絶対ずるい。
「なんだ、エリートコースじゃん。小さな会社に就職が決まった私なんかより、そっちの栄転の乾杯しなくちゃでしょ」
色々見透かされないように、急いで2つのグラスにワインを注ぎ直す。
「おめでとう。札幌の楽な通勤にすっかり慣れちゃってるだろうから、東京へ行ったらまずは通勤でへこたれないようにね」
「ありがとう。って何だよ、その祝いコメント」
笑って、喋って。
そして地下鉄の最終前に、じゃあねといつも通り見送った。
さよなら。
きっともう会えない君。
映画同好会から踏み出すのを君任せにしていた私こそ、本当はとてもずるかった。
だから大丈夫。もう大丈夫。
あの日開けたワインの残りが、冷蔵庫の扉を開くたび目に入るから、それがちょっと気にかかっているだけで。
そのせいで全てを忘れ去るのは、もう少し先になりそうなだけで。
〈了〉
![](https://assets.st-note.com/img/1643127545200-ACPYd9eLQI.jpg?width=1200)
いいなと思ったら応援しよう!
![律子](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/45566675/profile_cbbebd64c7b2572f3846a24c02657a4c.png?width=600&crop=1:1,smart)