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描写/主観と客観

【2022.6.28追記】訳わからない精神論も、セコイ技術論も、どっちも書きたくない。とか言いつつ、何を書いているのか。もしかして自分は、その「書きたくない」駄文しか書けない人間なんじゃないか。
無駄に思い詰めても仕方ないので少し緩めると、これは「セコイ技術論」サイドから見えるグラデーションを感じつつ書いたもの。にしても、「みんな」に「わかりやすい」文章が稲垣足穂とか流石におかしい。けど、ここは、「みんな」という人称概念がいかに粗雑で問題の多いものかを感じていただけたならそれでOKです。
さて、のっぺらべろんとした「みんな≒一般」の中に、しれーっと「個別の具体性」を紛れ込ませること(※広告コピーにおける必殺技でもあります)。これを、軽く自由にできてしまう話法が獲得できるなら、技術論も悪いもんじやないと思う。でも、どうなんだろう。
酒の席で、脱サラ&起業を画策中の男から「社是を考えてくれないか」と頼まれ(発注ではなく)、
「自己満足を顧客満足に」
と答えてみたことがある。ちゃらんぽらんな頼みごとには、ちゃらんぽらんに答えるのが礼儀と考える私は、礼を尽くしてそう答えたまでなんだが、相手は本気で気分を害したようだった。社長の器ではなかったということだろう。
そんな経緯はさて置き、先のフレーズをスローガンとして吟味するなら、単に「安易な公私混同の失敗例」か。中途半端に韻律整ってるとこが更に悲しく。


 主観描写とか客観描写とかの話をしますということではなく。まあ、ニホンゴまわり雑記には違いない訳ですが、今日のは一段と周縁的になりそうです。また、作家名とか出てきそうやけど「敬称略」で、いかせていただこうと思います。


 わかりやすい文章とは? 深遠すぎる問いなんでなるべく考えないようにしつつ、職業的に考えるフリぐらいする場合も稀にあったりする訳ですが、そのへんを改めて。

 例えば、好きな小説などを思い浮かべてみると。いや、「好き」ではなく「わかりやすい」だ。それも、私にとってではなく「みんな」にとっての「一般的_(0)参照_」なそれを想起。すると、ある共通点に気づいた。

「ビジュアルが浮かぶ」

とか

「映画を観ているみたいに」

とか、言葉にしてみると陳腐この上ないあの感じ。

 稲垣足穂、村上春樹、片岡義男、他にもいっぱいいるけど、まずはこの三人。でも、稲垣足穂作品を映像化するとなると撮影は困難を極めそうというか、そんなもんそもそも撮れるかい! CGで行くにしても予算が心配だ。よって除外し、あとの二人に絞る。キーワードは「カメラアイ」か?

 まず、村上春樹。村上春樹作品には、思念の連鎖を言語化した部分や、個人的なロジックの展開などが比較的多い。そういったかなりゴニョゴニョした文章_そうそうわかるわかると強い共感を覚えたり、自分は違うと反対意見を表明したくなったり、単にメンドクサかったり「わからん!」であるなど、読み手によって受け取り方に大きく差が出る_でありながら、「映画を観ているみたいに」わかるのはなぜか。例えば、ピザを食べながら、ワインを飲みながら、男女が会話しているといういかにも「一般的」な「あるある」シーンも、ワインの銘柄が「キャンティ」だったりテーブルクロスの柄が「ギンガムチェック」だったりすると、あたかも自分がその場に居合わせたかのように、場面がリアルに立ち上がってくる_※参照_のを(私は)覚える。そのへんの具体的なディテールが、煩く感じない程度に描写されているせいかな。

 片岡義男作品になると、村上春樹作品に比べゴニョゴニョ成分が少ないぶん更にわかりやすい。読後感も、上映が終わり満足した気持ちで映画館を後にするまさにあの感じ。

 見方によればお世辞_(1)参照_と忖度_(2)参照_の見本みたいな雑文になってしまったのに加え、一部ファンの方からすれば不快に感じられるやもしれない表現が混じったが、筆者にそれらの意図は微塵もないことをお断りしておく次第。

 あと、ちょっと時代をバックスクロールすると泉鏡花。この人は確か相当な映画(「活動写真」とするべきか、と一瞬思ったが実感がないのでヤメた)好きだったと、(たぶん)ちくま日本文学全集の解説かで読んだ記憶がある。それであんなモダンでスタイリッシュなんや! と。

 なるほど。ちゃんと丁寧に撮影した素材を、ちゃんと丁寧に編集した映像コンテンツのような文章こそが、わかりやすいということか。

 だがしかし、この結論は、私にとってそれほど牧歌的なハッピーではなく、何や気色の良くないものであり。

 私は、「人間の五感は視覚によって統合されている」的な発想に、少なからず違和感を覚え続けている。なんでって、人間の限界を予め設定し存在そのものを矮小化しているように思えるし、更に言えば、決して駆動するべきでない差別エンジンの香りすら、ほんのり漂ってくるやないですか。かく言う私の五感も、どうやら視覚によって統合されている。などとは思いたくないが、少なくとも私の感覚も視覚優位の成り立ちをしているようで。複雑。

 

 


(0)一般的

 何の本で何の話だったか詳細今わからないが、ミスコン(いずれも「美人コンテスト」と表記されていたように記憶する)を例に引いた説明を見た記憶がある。昨今のコモンセンスに照らして微妙な部分が多少気にもなるが、「一般的」や「みんな」の問題がわかりやすく可視化されている断面の提示として続けると、「審査員は、自分が美人だと思った候補者に投票するのではなく、『みんなが』No.1の美人だと判断する『であろう』人物を選ぶ」のだそう。

 私はミスコンの審査員をやった経験がないので、体感としてはわからないし、それホントかなあと思う部分もある。候補者の中に一人だけ直接の知り合いや縁者がいたとすれば、ルックスの評価など最初からやらずその人を推すかも知れない。事前に候補者の一人と話す機会があり「私はあなたを推すからもし選ばれたなら何か奢ってね」的な内容を伝えていた場合も、やはりその相手を推すだろう。

 「一般」の中に「私」は含まれていない。実体を持つシニフィエとしての「他者」もまた含まれていない。更に、「私」が想像してみた「一般」は「客観」ではない。

(1)世辞の失敗

 結婚を前提に交際中の若いカップルが、相手の両親に会いに行く。以下、男性が女性の両親に会いに行く場合を想定した場合の、ありがちな展開。

 交際していることを正式に報告(中略)みんなで食卓を囲み、近未来の義母の手料理などいただく。結婚のお許しをいただきたい。お母さんに気に入られなければ。まずは、まさに今いただいている手料理を誉めて喜んでもらおう。

「おいしい!_本当は苦手な味だったが_」

 作戦は成功したが、(将来の)義母の頭には「この子はこれが大好物」という情報が強力にインプットされてしまった。

 さて、結婚後も、妻の実家へ行く度、かつて「おいしい!」と言ってしまった本当は苦手な料理が出てくる。本当は苦手だが「おいしい!」と言って、またお代わりする。この苦行は一生続くのかと思いつつ。

 年に1回や2回ならそういった演技もできなくはないかも知れないが、同居する場合は続くだろうか?

(2)忖度の失敗

 身近にいっぱいあるでしょう。

 二人が飲んでいるワインの銘柄を指す「キャンティ」、テーブルクロスの柄を指す「ギンガムチェック」といったワードによって、ごくありがちなシーンがイメージ中でイキイキと動きだす『イエスタディ』は、話題の『ドライブ・マイ・カー』とともにこの短編集に収録されている。


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